ダマスカス妃との結婚と抗争とは? わかりやすく解説

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ダマスカス妃との結婚と抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:33 UTC 版)

ザンギー」の記事における「ダマスカス妃との結婚と抗争」の解説

シャイザル包囲戦後の1138年5月末、ザンギーダマスクス協定締結のため訪れた。かつて息子イスマイル殺しザンギー追い返したズムッルド妃と結婚し、妃は持参金としてホムスザンギーに贈るという協定だった。3ヵ月ホムス2人中東諸国東ローマからの使者らの前で結婚するが、ズムッルド妃を説得してなんとか彼女の息子マフムードからダマスクス引き継ごうとするザンギー努力はズムッルド妃にかわされてしまい、ザンギー結局この方法はあきらめた1139年7月、ズムッルド妃からマフムード暗殺されたことと暗殺者罰してほしいと便り受け取りザンギーダマスクス向かったが、ホムスからダマスクス引き上げたダマスクス実質的に支配しマフムード後継者ムハンマド代理となっていたウヌルのもと、ダマスクス守り固め、再びエルサレム王国連合したザンギーダマスクスの重要拠点バールベックをまず攻撃した時間がかかり、その間ウヌルは友人年代記作家ムンキズを通じエルサレム王国保護下に入る協定結んだ。いわく、ダマスクスザンギー遠ざける危急の際はダマスクスエルサレムの軍は統合されるダマスクスエルサレム戦費払いザンギー支配下の砦をエルサレムとともに攻める、ダマスクス名家の子弟を人質として差し出すなどである。 1140年4月ダマスクス迫ったザンギーエルサレム王国救援前に挟み撃ち恐れて攻撃あきらめ引き返した同年、ダマスクス・エルサレム連合軍ザンギーの砦バニヤース攻囲しザンギー駆けつけたがすぐに放棄したダマスクスはこれをエルサレム引渡し、ウヌルはエルサレム公式訪問するなど交流深めた。しばらくこれら諸国戦争はなかったが、ザンギー北方へ遠征しアッシーブやアルメニア人要塞ヒザーンを占領した

※この「ダマスカス妃との結婚と抗争」の解説は、「ザンギー」の解説の一部です。
「ダマスカス妃との結婚と抗争」を含む「ザンギー」の記事については、「ザンギー」の概要を参照ください。

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