北方へ遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 09:04 UTC 版)
207年夏、曹操は烏桓征伐の軍を起こし、烏桓の本拠地である柳城(現在の遼寧省朝陽市西南)に向けて進軍を開始した。易県まで軍を進めると、そこを烏桓征伐の拠点とした。郭嘉はこのとき、「兵は神速を貴びます。いま千里先の敵を襲撃するゆえ輜重は多く、有利に彼地へたどり着くことは困難です。しかも奴らがそれを聞けば、必ずや備えを固めることでしょう。輜重を残し、軽騎兵を(昼夜)兼行させて突出し、彼らの不意を衝くべきです」と献策した。曹操はその言を容れて軍の改編を行い、騎馬と車ばかりの大部隊を率いて、遼西の境へ侵入した。 曹操は易県から無終へ進軍し、地元の有力者であり地理に明るい田疇を案内役として招聘した。田疇は烏桓に故郷の人を殺されたことを怨んでおり、それもあって曹操軍に従軍した。当時無終では長雨により、道が泥でぬかるんで通行困難になっていた。そのうえ、烏桓が曹操軍の進軍経路を予測して要道を抑えていたため軍を進めることができなくなった。曹操は田疇に助言を求めると、田疇は200年以上前に崩落して使われなくなった間道から先に進むことができると教え、雨で街道がふさがっている限り曹操軍は来ないと油断している烏桓の背後を突くべしと進言した。田疇は自ら手勢五百を率いて先発し、先導役となった。 曹操は街道に立札を立て『雨季により街道が通行不能の為一時撤退する。秋冬になるまで進軍は取り止める。』というような旨を書いた。烏桓の斥候はそれを真に受けて曹操軍が本当に後退するものだと思い込み、油断しきっていた。 曹操軍は田疇の先導で、柳城に向け五百里以上を行軍した。灤河の渓谷を越え盧龍塞(現在の河北省遷西県西北)を通り、徐無山を登った。そして、白檀(現在の河北省灤平県東南、興州河南岸)を通過し、平岡(現在の遼寧省凌源市西南)で東へ転身し、さらには鮮卑の地を渉った。曹操軍はひたすら進行を続け、ついに柳城の二百里手前まで到達した。曹操の経歴の中でも最も長く過酷な行軍だった。
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