北方の長官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 02:11 UTC 版)
元々は趙の北方、代郡・雁門郡に駐屯する国境軍の長官で、国境防衛のために独自の地方軍政を許され、匈奴に対して備える任についていた。警戒を密にして、烽火台を多く設け、間諜を多く放つなどし、士卒を厚遇していた。匈奴の執拗な攻撃に対しては徹底的な防衛・籠城の戦法を採ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた。兵達には「匈奴が略奪に入ったら、すぐに籠城して安全を確保すること。あえて討って出た者は斬首に処す」と厳命していたからである。 だが、そのやり方は匈奴だけでなく、趙兵にさえも臆病者であると思われてしまうこととなる。趙王は李牧のやり方を不満に思い責めたが、李牧はこれを改めなかったので、任を解かれた。 李牧の後任者は勇敢にも匈奴の侵攻に対して討って出たが、かえって被害が増大し、国境は侵された。そのため、趙王は過ちに気付き、李牧に任を請うたが、李牧は門を閉じて外に出ず、病と称して固辞した。それでも将軍に起用されたので、李牧は「王がどうしても私を将軍にしたければ、前の方針を変えないようにさせて下さい」と言い、これを許された。そして、李牧は元通り、国境防衛の任に復帰することになった。 ある日、匈奴の小隊が偵察に来た時、李牧は数千人を置き去りにして偽装の敗退を行い、わざと家畜を略奪させた。これに味をしめた匈奴の単于が大軍の指揮を執ってやってきたが、李牧は伏兵を置き、左右の遊撃部隊で巧みに挟撃して匈奴軍を討った。結果、匈奴は十余万の騎兵を失うという大敗北に終わった。その後、李牧はさらに襜襤(せんらん)を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降したため、単于は敗走し、匈奴はその後十余年は趙の北方を越境して来なくなった。 紀元前243年、悼襄王の命で燕を討ち、武遂や方城などに侵攻した。
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