北方の勇将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 21:18 UTC 版)
先祖代々二千石(郡太守クラス)であった有力豪族の子として生まれたが、生母の身分が低かったので、あまり厚遇されなかった。若い頃に、遼西郡の門下書佐に任命された。聡明で、声が大きく、容姿が優れていたという。弁舌さわやかで頭の回転も速く、物事の説明も巧みであったという(『典略』)。太守の侯氏から惚れ込まれ、侯氏の娘婿となる。そして侯氏の援助で涿郡の盧植の下で経書・兵学を学んだ。このときの学友に劉備と高誘(中国語版)がいる(蜀志「先主伝」など)。同時に劉寛のもとでも学問を習った。 太守の劉氏(名は劉其、または劉基)が法律に触れて廷吏に連行されたとき、公孫瓚は法に触れる危険を犯してこれに随行し、雑役を代わって務めた。劉氏が日南郡に流罪となりそうになると、公孫瓚はこれに随行するため北虻山の上で先祖を祭り、米と肉を捧げて涙を流し祈った。人々はこの姿を見て涙を流した。結局、劉氏は赦免を受けて帰還することができた。 公孫瓚は孝廉に推挙されて郎となり、遼東属国長史となった。数十騎の小勢を率いて城外に出て辺境の砦を巡察したとき、数百騎を率いた鮮卑族の一団を見かけた。これを自ら突撃して半数の手勢を失うも撃退した。鮮卑はこの後、国境を侵すことは稀になったという。公孫瓚は涿県の令となった。 光和年間に涼州で反乱が起きた。中平2年(185年)に涼州地方で韓遂・辺章の反乱があった際、張温が車騎将軍に任命されて孫堅・陶謙らを参謀に迎え、袁滂(中国語版)・周慎と共に軍勢を率いて董卓と合流し鎮圧に向かった。しかし張温は、元の中山太守であった張純が討伐に従軍したいと希望していることを知りながら、これを聞き容れず公孫瓚を抜擢した。翌3年(186年)、張温の討伐軍への援軍として、朝廷は幽州の突騎3,000人の出動を命じた。このとき公孫瓚は都督行事の割符を与えられ、突騎兵の指揮を任された。公孫瓚が薊まで来たところで、この待遇に不満を持った張純は「弥天安定王」と称し同郷の元泰山太守の張挙と烏桓(烏桓族、烏丸とも)の大人(地位の高い、いわゆるリーダー、族長)丘力居らと共に反乱を起こし、右北平郡と遼西郡を荒らしまわった(張純の乱)。この反乱軍には中央政権に不満を抱く漢民族も加わり、総勢は10万近くに及んだとされる。 公孫瓚は配下を率いて張純らを攻撃し撃破したため、騎都尉となった。更に反乱を繰り返す張純に公孫瓚は攻撃を仕掛け、遼東付近でこれを攻め破り(石門合戦)、誘拐・捕虜とされていた人民らを素早く救出し、さらに長城を越えて反乱軍を追撃した。だが、深入りしすぎたために今度は逆に反乱軍の包囲を受け、数百日の激闘の末、食糧が尽きて両軍ともに撤退することになった。 張温や公孫瓚らは張純軍を鎮圧するに至らなかった。局面の打開を図ろうと考えた朝廷は、中平5年(188年)に宗正の劉虞を幽州牧に任命して平定に当たらせた。劉虞は丘力居に対し、懐柔策を用いて張純との離間を謀った。元来、劉虞が徳厚く信望を集める人柄であり、烏桓の間でも人望が厚かったため、丘力居は同年早々に劉虞の下へ帰順した。 この劉虞の懐柔による反乱平定の際に、公孫瓚は自身の功績を劉虞に奪われることを恐れ、劉虞と烏桓族の交渉を妨害した。この反乱の経緯から、公孫瓚と劉虞の対立が始まり、それが後に大きな動乱を招く一因となった。 その後、烏桓族の貪至王が騎馬部族を率いて公孫瓚に降伏したため、自軍へ編入した。その功で中郎将・都亭侯となった。公孫瓚は遼東属国に駐屯し、異民族と5~6年の間、戦闘を繰り広げた。
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