周慎
漢陽(あるいは武威)の人《後漢書董卓伝》。周珌の父《後漢書献帝紀》。 『後漢書献帝紀』に引用する『東観漢記』に「周珌は予州刺史周慎の子」とある。ここでは予州刺史と盪寇将軍を同人と解した。本郡については周珌の解を参照のこと。 中平元年(一八四)冬、北地郡の先零羌が北宮伯玉・李文侯らとともに反乱を起こし、護羌校尉伶徴・金城太守陳懿らを殺し、辺章・韓遂を頭目と仰いだ。翌二年春、彼らは宦官を誅殺するのだと言いながら三輔地方に侵入してきた《後漢書董卓伝》。盪寇将軍であった周慎は、車騎将軍張温のもとで破虜将軍董卓らとともに、韓遂らを討伐することになった《後漢書董卓伝》。 十一月、流星に驚いた賊徒が金城郡楡中の城に逃げ込んだので、張温は三万人を率いて城を包囲するよう周慎に命じた。そのとき張温の参軍事として周慎に従軍していた孫堅が「賊の城内には軍糧がありませんから城外から搬入しているはずです。孫堅が軍勢一万をお預かりして糧道を絶ちますので、将軍は大軍を率いて後詰めをなさってくだされ」と進めたが、周慎は聞き入れなかった《後漢書董卓伝》。 周慎が楡中城を包囲して外壁を破壊し、そうした戦況を張温に報告していたところ、はたして韓遂・辺章は軍勢を分けて葵園狭に進駐させ、逆に周慎の糧道を杜絶してしまった。周慎は恐怖を抱き、輜重車を打ち捨てて撤退した。こうして張温の軍勢は敗退してしまったのである《破虜伝・後漢書董卓伝》。 【参照】韓遂 / 周珌 / 孫堅 / 張温 / 陳懿 / 董卓 / 辺章 / 北宮伯玉 / 李文侯 / 伶徴 / 漢陽郡 / 葵園狭 / 金城郡 / 三輔 / 武威郡 / 北地郡 / 楡中県 / 予州 / 護羌校尉 / 参軍事 / 刺史 / 車騎将軍 / 太守 / 盪寇将軍 / 破虜将軍 / 宦官 / 先零羌 / 流星 |
周慎
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周 慎(しゅう しん、生没年不詳)は、後漢末期の武将・政治家。涼州武威(又は漢陽)の人。周毖(周珌)の父。『後漢書』の「霊帝紀」「董卓伝」や『三国志』の「孫堅伝」に記録がある。
『後漢書』「献帝紀」によると、時期は不明だが豫州刺史を務めていたことがあるという。
184年、涼州で羌族が漢人の辺章と韓遂を首領にかついで反乱を起こしたとき、当初は左車騎将軍の皇甫嵩と中郎将の董卓が追討の任にあたった。185年になっても反乱を鎮圧することができなかったことを理由に朝廷は皇甫嵩を罷免し、董卓を破虜将軍に任命したうえで、改めて車騎将軍として張温を派遣した。このとき、盪寇将軍の周慎は執金吾の袁滂と共に張温の討伐軍に随行した。
状況の変化に驚いた賊軍は総崩れとなり、董卓の追撃を受け散々に打ち破られ、城に逃げ延びた。周慎は張温の部下の孫堅と共に城攻めにあたった。孫堅は敵を兵糧攻めにすべきと進言したが、周慎はその進言を聞き入れなかったため、逆に兵糧を断たれてしまい敗北した。その後の周慎の動静は不明である。張温は長安に駐屯し、186年に在外のままで太尉に任命されたが、討伐の任を果たすことができなかった。
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