東観漢記
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『東観漢記』(とうかんかんき)は、後漢(25年から220年)の歴史を記した歴史書。もと143巻であったが、のちに失われ、現在見ることができるのは清代以降に佚文を集めたものである。
注釈
- ^ 詳しくは#評価の#現代歴史学における史料的価値を参照。
- ^ 「三史」という語が三国時代に何を指したかについては古来異論のあるところで、そのうち「二史」については『史記』・『漢書』であることは明らかなのであるが、3番目を『戦国策』とするか『東観漢記』とするかで分かれる。このうち『戦国策』をとるので著名なのは王鳴盛『十七史商榷』三国志四「三史」である。『東観漢記』説をとるのは銭大昕『十駕斎養新録』六「三史」であり、以後『庫目提要』や姚振宗もこれを踏襲している。[1]
- ^ この交代の時期について、池田昌広は『唐六典』に基づいて玄宗朝とする[5]。
- ^ たとえば王郎や楚王英。
- ^ 図讖(讖緯)とは予言書のこと。前漢末の哀帝・平帝の頃になると従来の儒教経典のほかに緯書が出現した。「緯」はよこの意であり、つまり「経(たて)」を補うものとしての意味である。この緯書は図讖と非常に関連した内容となっており、合わせて讖緯説というのである[12][13]。図讖は「漢王朝は火徳の聖王である堯の後裔がたてた王朝である」「漢王朝は天や聖人孔子などによって絶対的に支持されている」といった立場で書かれた予言書であった。光武帝による漢再興は、「図讖革命」ともいわれるように、この予言書を活用したものであった[13][14]。
- ^ ただし、戸川芳郎によれば、『隋書』経籍志総序において「史官」の変遷が論じられているが、その見方に従えば、三国魏における著作郎の成立を「史官」の制度的な出現と見ている。したがって後漢の東観の修史事業はあくまで「史官」そのものとは考えられていないという[16]。
- ^ 『漢書』王莽伝が災異や瑞祥を詳しく記すのは、王莽の符命政治の欺瞞性と光武帝の正統性を明らかにする目的からである[18]。
- ^ 明帝期に班固が共同で編纂した『東観漢記』の原形の一つ。詳しくは#編纂過程を参照。
- ^ 范曄は『後漢書』の文章に自信を持っていたとされ、事実『文選』の「史論」編には、採録された文章のうち過半数にあたる4種が採録されており、六朝時代に高い評価を得ていたことが知られる[22]。
- ^ この時代の世相については新末後漢初および後漢#歴史、光武帝#統一後などを参照。
- ^ 校注序は触れないが、『中国史学名著評介』によれば、章帝の時期も引き続き修史事業は続けられ、明帝の本紀が書かれたらしい[30]。
- ^ 劉知幾『史通』巻十二「古今正史 第二」による。このとき劉珍らが撰したのは、本紀・表に加え、名臣・節士・儒林・外戚についての列伝を備えたものであったという。
また、范曄『後漢書』巻八十上「文苑列伝 第七十上」の李尤伝には、李尤が劉珍らとともに詔を受けて「漢記」を編纂したとある[31]。 2010年3月10日現在、中国語版にはこのときの編纂過程で東観に編纂所が定められたと『史通』古今正史編に書かれているとあるが、当該箇所にはそのような記述はない。中国語版の問題箇所は「據《史通・古今正史篇》,還尚有《紀》、《表》、《外戚》等傳,時間起於建武,終於永初,書始名《漢記》,不久,工作地點遷至南宮東観。」の一文であるが、前述のように、『東観漢記校注』序によれば南宮東観に史料編纂の中心が移ったのは章帝から和帝にかけての時期[6] であり、この第2期編纂過程より前である。 - ^ 孝穆皇は桓帝の祖父の河間孝王劉開であり、孝崇皇はすなわち桓帝の父の蠡吾侯劉翼である。詳しくは#後漢系図を参照。
出典
- ^ 戸川[1992]、注(3)。
- ^ 校注序、p.7。
- ^ 稲葉[1999]、p.183。
- ^ 吉川[2001]、p.376。
- ^ 池田[2008]、p.7。
- ^ a b 校注序、pp.4-5。
- ^ 校注序、pp.5-6。
- ^ 小林[1984]。
- ^ 小林[1984]、p.62。
- ^ 小林[1984]、p.57および注(2)。
- ^ 小林[1984]、pp.57-58。
- ^ 溝口ほか[2001]、p.328。
- ^ a b 西嶋[1997]、p.475。
- ^ 溝口ほか[2001]、p.329。
- ^ a b 小林[1984]、p.63。
- ^ 戸川[1992]、p.10。
- ^ 小林[1984]、p.61。
- ^ a b 小林[1984]、p.66。
- ^ 小林[1984]、pp.65-66。
- ^ a b 小林[1984]、pp.66-67。
- ^ 小林[1984]、p.70。
- ^ a b 渡邉[2001]、pp.13-14。
- ^ 池田[2008]、p.6。
- ^ a b c 『史通』「古今正史」編。
- ^ 渡邉[2001]、pp.8-9。
- ^ 池田[2008]、p.10。
- ^ 斎藤実郎「東観漢記・七家後漢書後漢書の史料問題」(『中国正史の基礎的研究』所収)、pp.57-85。
- ^ 小林[1984]、pp.62-63。
- ^ 校注序、p.1。
- ^ 『中国史学名著評介』1巻、p.145。
- ^ 中華書局校点本『後漢書』、p.2616。
- ^ 校注序、p.6。
- ^ a b 山根[1991]、p.200。
- ^ 校注序、pp.6-7。
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