黄香【オウカ】(果樹)
登録番号 | 第13771号 | |
登録年月日 | 2006年 2月 27日 | |
農林水産植物の種類 | りんご | |
登録品種の名称及びその読み | 黄香 よみ:オウカ | |
品種登録の有効期限 | 30 年 | |
育成者権の消滅日 | ||
品種登録者の名称 | 岩手県 | |
品種登録者の住所 | 岩手県盛岡市内丸10番1号 | |
登録品種の育成をした者の氏名 | 小野田和夫、佐々木仁、鈴木哲、河田道子、奥平麻里子、浅川知則、佐藤秀継、小原繁、三浦晃弘、佐々木真人、石川勝規、長﨑優子、久米正明、藤根勝榮 | |
登録品種の植物体の特性の概要 | ||
この品種は、「つがる」に「プリシラ」を交配して育成されたものであり、果形が円錐、大きさが大、果皮を被う色が黄、育成地(岩手県北上市)では9月下旬に成熟する中生種である。樹のタイプは普通型、樹姿は開張、樹勢は中である。枝梢の太さは中、節間長は短、皮目の大きさ、多少及びえき花芽の着生は中である。葉身長は短、葉形は中間、葉色は緑、たく葉の形は鎌形、長さ及び葉柄の長さは短、太さは中である。花の大きさは中、花色は濃桃、花弁の形は卵、やくの色は淡黄である。果形は円錐、王冠は弱、がくの開閉は中、がくあの深さ、幅及びこうあの深さは中、こうあの幅は広、果実の大きさは大、果皮の地色及び被う色は黄、被う色の強さは濃、さびの位置はこうあ、量は少、さび状果点は無、果点の大きさは小、密度は中、スカーフスキンは無、果皮のろう質は少、粗滑の程度は滑である。果梗の長さは長、太さは太、肉こうの有無は無である。果心の形は円錐、大きさは小、果肉の色は黄、果肉の褐変化は中、硬さはやや硬、肉質はやや粗、蜜の多少は少、甘味は中、酸味は弱、渋味及び香気は中、果汁の多少は多、種子の形は倒卵、大きさは中である。発芽期、開花期及び成熟期は中で育成地においては9月下旬である。結果の早晩は中、後期落果は多、普通貯蔵はやや長、冷蔵貯蔵は中、心かびの発生は無~僅である。「きたろう」及び「シナノゴールド」と比較して、がくの開閉が中であること、渋みがあること等で区別性が認められる。 | ||
登録品種の育成の経過の概要 | ||
この品種は平成2年に岩手県園芸試験場(現岩手県農業研究センター、北上市)において、「つがる」に「プリシラ」を交配し、その実生の中から選抜し、以後、増殖を行いながら特性の調査を継続し、平成14年に特性が安定していることを確認して育成を完了したものである。 |
黄香
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 22:11 UTC 版)
黄 香(こう こう、68年 - 122年)は、後漢中期の政治家・文人。字は文強。江夏郡安陸県雲夢の人。中国の孝子を数える「二十四孝」の一人。父は黄況。子は黄瓊。曾孫に黄琬がいる。
概要
9歳のとき、母を失った。思慕と憔悴のために服喪の期間が過ぎてもそれを終えることができなかったため、郷里の人はその至孝を称えた。江夏太守の劉護がこれを聞いて召し寄せ、12歳で郡の門下孝子とした。黄香の家は貧しく、僕妾もいなかったため、自ら労働しながら心を尽くして父に奉養し、同時に経典を広く学び、道術の精を窮め、文章をよくした。その名声は洛陽まで響き、「天下無双の江夏の黄童」と号されるほど評判になった。
朝廷に招聘されて郎中に任じられた。元和元年(84年)、章帝の詔で東観へ詣で、これまで目にする事ができなかった書物を読む事を許された。その帰途、二十歳になったばかりの千乗貞王劉伉[1]と出遭った。章帝は諸王に黄香を示して、「これが『天下無双の江夏の黄童』だ」と言ったので、左右の者達も皆改めて黄香を眺めやった。のちに政事に携わるようになり、尚書郎を拝命した。政事の得失を数々述べ、常に一人尚書台に泊まり込み、昼夜宮中を離れなかった。
和帝の永元4年(92年)、左丞[2]を拝した。功績が昇進に該当しても留任を受け、秩禄が増やされた。永元6年(94年)、尚書令となり、その後東郡太守へと昇進したが、黄香は郡を治めるのは自分の能力の堪えない職務だとして辞退した。和帝もまた黄香の能力を惜しんで再び尚書令に任じ、秩石を二千石に増し[3]、これによって枢機を管理させた。その信任は厚く、黄香も職務に精励して、公事を憂えること家を憂えるが如くだった。
永元12年(100年)、東平郡・清河郡が卿仲遼という人物を妖言[4]の罪で上奏し、連座する者が1000人にも昇った。黄香は個別の上奏に基づいて審理し、罪を免れた者は非常に多かった。また、郡国が罪を訴える度に軽い量刑を求め、人命を愛惜した。辺境のことにも通暁し、軍事と政事の兼ね合いを取り、政策は全て適切なものだった。
和帝はその精勤を知り、数々の恩賞を加え、疾病したときには医薬を賜った。在位中、多くの者を推薦し、論者はそのあまりの寵遇を非難するほどだった。
安帝の延光元年(122年)、魏郡太守となった。黄香は「商人と仕官者は農事に関わってはならない」として農民を保護した。当時大水害があり、俸禄とこれまでの賞賜を分け与えて貧者を助けた。富裕な家もこれを見て義穀を出し、官府による貸付の助けとした。災害に逢った民はこれにより助かる事が出来た。水害に座して免職され、数カ月して家で死去した。
著作に賦・牋・奏・書・令の五篇がある。
枕を扇ぎ衾(ふすま)を温(あたた)む
黄香は、母を亡くした後、父親に孝養を尽くした。夏の暑い盛りには父の枕を扇いで涼をとり、冬の寒冷には自分の体で布団を温めた。これが江夏太守の劉護の耳に入り、大いに称賛された。黄香は中国でも有名な孝子の一人となり、『扇枕温衾』は元代に郭居敬によって二十四孝の一つに数えられることになった。
参考文献
脚注
黄香
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 00:08 UTC 版)
黄香(こうこう)は母を亡くし、残された父によく仕えた。夏の暑い時には枕や椅子を団扇で扇いで冷やし、冬の寒い時には布団が冷たいのを心配し、自分の身体で暖めた。これを知った江夏郡の太守劉護は、高札を立てて黄香の孝行を褒め称えた。
※この「黄香」の解説は、「二十四孝」の解説の一部です。
「黄香」を含む「二十四孝」の記事については、「二十四孝」の概要を参照ください。
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