張廷玉とは? わかりやすく解説

張廷玉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/12 01:03 UTC 版)

張廷玉

張 廷玉(ちょう ていぎょく、康熙11年9月9日1672年10月29日) - 乾隆20年3月20日1755年4月30日))は、の政治家。は衡臣、号は研斎。安徽省安慶府桐城県の出身。保和殿大学士軍機大臣・太保の位を得て、三等伯に封ぜられ、三朝にわたって50年仕えた。

康熙11年(1672年)生まれで、父は康熙年間の大学士張英。康熙39年(1700年)に進士科挙の最終合格者)となる。康熙年間の検討、直南書房、洗馬、侍講学士、内閣学士刑部侍郎吏部侍郎等の職を歴任する。

雍正元年(1723年)礼部尚書に昇進、次年に戸部尚書、翰林院掌院学士国史館総裁、太子太保へ転任。雍正3年(1725年)、大学士の仕事に配属される。雍正4年(1726年)、文淵閣大学士、戸部尚書、翰林院掌院学士へ進み、康熙実録総裁官を兼任する。雍正6年(1728年)、保和殿大学士兼吏部尚書へ転任する。

雍正7年(1729年)、少保の階級を得る。同年、西北での戦争により、軍機房を隆宗門内に設け、怡親王允祥より、その仕事を大学士の蔣廷錫が取り締まった。雍正帝の臨終で、オルタイ中国語版(鄂爾泰)と共に勅命をうけて大臣となった。乾隆帝の時代に、両朝の元老となったことを朝廷が重くみて、死後太廟へ祀られた。清代を通して、漢人の大臣で太廟に祀られた者は張廷玉ただ一人である。

張廷玉の在任期間での主な仕事は皇帝の秘書であり、上奏文の制度と軍機処の運用規則の改善で貢献した。他の直接政務を処理した大臣と違い、歴史上張廷玉の具体的な功績はあまり多く残されていない。

張廷玉の人となりは、小心翼々として「万言万当、不如一黙」(北宋黄庭堅の言)を謹んで守った。そのため雍正帝は彼を「器量純全、抒誠供職」と讃え、「大臣中第一宣力者」と称した。

相前後して『康熙字典』・『雍正実録』、そして『明史』・『国史館』・『清会典』を編纂した。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「張廷玉」の関連用語

1
佩文韻府 デジタル大辞泉
94% |||||

2
明史 デジタル大辞泉
76% |||||


4
38% |||||


6
36% |||||



9
32% |||||

10
30% |||||

張廷玉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



張廷玉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの張廷玉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS