張延賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/17 14:08 UTC 版)
張 延賞(ちょう えんしょう、726年 - 787年)は、唐代の官僚・政治家。もとの名を宝符。本貫は蒲州猗氏県[1][2]。
経歴
中書令の張嘉貞の子として生まれた。幼くして父を失った。開元末年に玄宗の召見を受け、「賞延于世」から取って、延賞の名を賜った。特別に左司御率府兵曹参軍に任じられた。経書や史書を広く渉猟し、行政事務に熟達した。侍中の苗晋卿に見出されて、その娘を妻に迎えた。粛宗が鳳翔府にいたとき、延賞は監察御史に抜擢され、緋魚袋を賜った。殿中侍御史に転じた。関内節度使の王思礼に求められて従事となった。王思礼が太原尹に転出すると、延賞は太原少尹となり、行軍司馬・北都副留守を兼ねた[3][4]。
広徳元年(763年)、代宗が陝州に避難すると、延賞は給事中に任じられ、御史中丞・中書舎人に転じた。大暦2年(767年)、河南尹に任じられ、諸道営田副使をつとめた。ときに河南・淮西・山南副元帥が罷免され、その兵が東都洛陽に駐屯すると、延賞は権知東都留守としてこの兵を領知した。大暦6年(771年)[5]、長安に入朝して御史大夫に任じられた。まもなく揚州刺史・淮南節度観察等使として出向した。ほどなく母が死去したため、延賞は職を去って喪に服した。大暦11年(776年)[6]、喪が明けると、延賞は検校礼部尚書・江陵尹となり、御史大夫・荊南節度観察使を兼ねた[3][7]。
大暦14年(779年)[8]、延賞は御史大夫を兼ねたまま、検校兵部尚書・成都尹・剣南西川節度観察使に転じた。建中3年(782年)[9]、吏部尚書を加えられた。建中4年(783年)11月、西山兵馬使の張朏が兵を率いて成都府に入り、反乱を起こすと、延賞は漢州の鹿頭関に逃れ、戍将の叱干遂らが張朏の乱を討った。その月、張朏とその仲間を斬り、延賞は成都府に復帰した。徳宗が山南に避難すると、延賞は多くの奉献物を提供して、朝廷を援助した[10][11]。
貞元元年(785年)、宰相の劉従一が病のため退任すると、延賞は中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。延賞は鳳翔節度使の李晟と合わず、李晟は上表して延賞の罪悪をあげつらった。徳宗は李晟の意に違うことができず、延賞が興元府に到着すると、宰相を退任して尚書左僕射に転じた。かつて大暦末年に吐蕃が剣南に侵攻すると、李晟は神策軍を率いて剣南を守備した。軍を返すにあたって、李晟は成都府の官妓の高氏を連れて帰った。延賞はこれを聞いて激怒し、官吏を派遣して高氏を連れ戻した。李晟はこのことを恨みに思っていたのであった。貞元3年(787年)1月、李晟が入朝すると、徳宗は李晟に延賞と和解するよう促した。浙西観察使の韓滉も李晟に恨みを解くよう勧めたので、李晟は上表して延賞を宰相に推薦した。このため延賞は再び同中書門下平章事を加えられた。7月、延賞は死去した。享年は62。太保の位を追贈された。諡は成粛といった[12][13]。
脚注
- ^ 旧唐書 1975, p. 3090.
- ^ 新唐書 1975, p. 4441.
- ^ a b 旧唐書 1975, p. 3607.
- ^ 新唐書 1975, p. 4444.
- ^ 旧唐書 1975, p. 298.
- ^ 旧唐書 1975, p. 309.
- ^ 新唐書 1975, pp. 4444–4445.
- ^ 旧唐書 1975, p. 323.
- ^ 旧唐書 1975, p. 334.
- ^ 旧唐書 1975, pp. 3607–3608.
- ^ 新唐書 1975, p. 4445.
- ^ 旧唐書 1975, pp. 3608–3610.
- ^ 新唐書 1975, pp. 4445–4446.
- ^ 旧唐書 1975, p. 3610.
- ^ 新唐書 1975, p. 4446.
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
- 張延賞のページへのリンク