涼州で牙を研ぐとは? わかりやすく解説

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涼州で牙を研ぐ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 22:19 UTC 版)

董卓」の記事における「涼州で牙を研ぐ」の解説

中平元年184年)、昇進して中郎将『後漢書』董卓伝」によると持節東中郎将)に任命され盧植後任として黄巾賊討伐に出るも敗退して免職となった同年冬、涼州金城郡辺章韓遂らが羌・胡の協力得て反乱を起こすと、翌中平2年185年)、董卓は再び中郎将返り咲き、副車騎将軍皇甫嵩と共に乱の追討向かった『後漢書』董卓伝」)。後に皇甫嵩罷免されると、司空張温車騎将軍任じられ執金吾の袁滂を副将とし、董卓は盪寇将軍周慎と共にその指揮下に入った。このとき、破将軍任命された(『後漢書』董卓伝」)。張温董卓後漢軍は諸郡の兵力10万集め美陽駐屯した。辺章韓遂反乱軍美陽攻撃仕掛けてくると不利に陥ったが、流星流れ辺章韓遂らの陣営明るく照らしたため、これを不吉に思った辺章韓遂らは金城郡撤退した董卓右扶風らは辺章韓遂らを追撃して大い破った『後漢書』董卓伝」)。 張温周慎孫堅らに命令して城に籠った韓遂らを攻撃させる一方で董卓には羌族攻撃命じた。しかし、董卓数万羌族の軍により包囲されてしまった。兵糧欠乏してきたため、董卓を捕るふりをしてひそかに川を堰き止めてを貯めて、堰の下を通って敵の包囲から抜け出してから、堰を切ったため、川の水深が深くなったので、敵は追撃できなかった。 この戦いで6師団後漢軍のうち、5師団敗北したが、董卓軍勢だけは大きな損害受けず扶風駐屯した。董卓斄郷侯となり、1000戸の領邑受けた『後漢書』董卓伝」)。 中平5年188年)、張温帰還後韓遂らに備えて扶風駐屯する董卓前将軍任命された。ちょうど、漢陽郡王国挙兵し車騎将軍自称し韓遂馬騰らと合流し強勢となった董卓左将軍皇甫嵩と共に王国討伐出動した董卓兵法通り作戦立てて皇甫嵩進言行ったが、皇甫嵩反乱軍対し臨機応変対処し、それは董卓進言の逆を突くものであった。その作戦反乱軍大勝した結果として功績皇甫嵩帰し董卓作戦的を射ていないと言われてしまう始末であった『後漢書』皇甫嵩伝」)。 その後朝廷から少府任命され、軍を皇甫嵩引き渡して帰還促す命令を受けるが、董卓辺地治安悪化理由拒否して駐屯続けた(「霊帝紀」)。翌中平6年189年)に并州牧 となる。なお、并州任官同時に、軍を手放すよう2度目命令受けたが、董卓軍隊率いたままで并州に赴任することを望んで再び勅令拒否した(「霊帝紀」)。 董卓軍勢率いたまま河東駐屯し時勢伺っていたという(『後漢書』董卓伝」)。

※この「涼州で牙を研ぐ」の解説は、「董卓」の解説の一部です。
「涼州で牙を研ぐ」を含む「董卓」の記事については、「董卓」の概要を参照ください。

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