涼州で牙を研ぐ
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中平元年(184年)、昇進して中郎将(『後漢書』「董卓伝」によると持節・東中郎将)に任命され、盧植の後任として黄巾賊を討伐に出るも敗退して、免職となった。 同年冬、涼州で金城郡の辺章・韓遂らが羌・胡の協力を得て反乱を起こすと、翌中平2年(185年)、董卓は再び中郎将に返り咲き、副車騎将軍の皇甫嵩と共に乱の追討に向かった(『後漢書』「董卓伝」)。後に皇甫嵩が罷免されると、司空の張温が車騎将軍に任じられ執金吾の袁滂を副将とし、董卓は盪寇将軍の周慎と共にその指揮下に入った。このとき、破虜将軍に任命された(『後漢書』「董卓伝」)。張温・董卓ら後漢軍は諸郡の兵力10万を集め、美陽に駐屯した。辺章・韓遂の反乱軍が美陽に攻撃を仕掛けてくると不利に陥ったが、流星が流れ辺章・韓遂らの陣営を明るく照らしたため、これを不吉に思った辺章・韓遂らは金城郡へ撤退した。董卓と右扶風の鮑鴻らは辺章・韓遂らを追撃して、大いに破った(『後漢書』「董卓伝」)。 張温は周慎・孫堅らに命令して城に籠った韓遂らを攻撃させる一方で、董卓には羌族の攻撃を命じた。しかし、董卓は数万の羌族の軍により包囲されてしまった。兵糧が欠乏してきたため、董卓は魚を捕るふりをしてひそかに川を堰き止めて水を貯めて、堰の下を通って敵の包囲から抜け出してから、堰を切ったため、川の水深が深くなったので、敵は追撃できなかった。 この戦いで6師団の後漢軍のうち、5師団は敗北したが、董卓の軍勢だけは大きな損害を受けず、扶風に駐屯した。董卓は斄郷侯となり、1000戸の領邑を受けた(『後漢書』「董卓伝」)。 中平5年(188年)、張温の帰還後も韓遂らに備えて扶風に駐屯する董卓は前将軍に任命された。ちょうど、漢陽郡の王国が挙兵し車騎将軍を自称し、韓遂や馬騰らと合流し強勢となった。董卓は左将軍の皇甫嵩と共に王国の討伐に出動した。董卓は兵法通りの作戦を立てて皇甫嵩に進言を行ったが、皇甫嵩は反乱軍に対し臨機応変に対処し、それは董卓の進言の逆を突くものであった。その作戦で反乱軍に大勝した結果として功績は皇甫嵩に帰し、董卓の作戦は的を射ていないと言われてしまう始末であった(『後漢書』「皇甫嵩伝」)。 その後、朝廷から少府に任命され、軍を皇甫嵩に引き渡して帰還を促す命令を受けるが、董卓は辺地の治安悪化を理由に拒否して駐屯を続けた(「霊帝紀」)。翌中平6年(189年)に并州牧 となる。なお、并州牧任官と同時に、軍を手放すよう2度目の命令を受けたが、董卓は軍隊を率いたままで并州に赴任することを望んで再び勅令を拒否した(「霊帝紀」)。 董卓は軍勢を率いたまま河東に駐屯し、時勢を伺っていたという(『後漢書』「董卓伝」)。
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