并州に赴任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 02:07 UTC 版)
これより以前の304年、匈奴の劉淵が離石において挙兵し、漢(後の前趙)を建国していた。并州刺史である東嬴公司馬騰は劉淵と争うも度々敗れ、大いに恐れて晋陽を離れて鄴に出鎮した。当時、并州の土地は飢饉や漢軍の攻勢により荒廃していた事もあり、多くの百姓が司馬騰に従って南下した。その為、并州に残った民は二万戸にも満たず、国境外からやって来た賊が暴れまわり、交通は断たれていた。 9月、司馬越の命により并州刺史に任じられ、振威将軍・匈奴中郎将を加えられた。劉琨は千人余りを募兵して并州に向かったが、険しい山道や胡人の襲撃に大いに苦しめられた。上党で新たに五百人の兵を集め、戦いながら前進した。赴任する前に上表し、胡賊に囲まれて食糧物資が欠乏している現状を訴え、穀物五百万石・絹五百万匹・綿五百万斤の援助を求めると、朝廷はこれを認めた。板橋に進むと漢の大将軍劉景より攻撃されたが、劉琨はこれを撃破した。 307年春、劉琨は転戦を続けて遂に晋陽にたどり着いた。賊によって役所は焼き壊されており、死体が地を覆い、生者もまた飢えて生気を失っていた。災難が各所で溢れ帰り、残忍強欲な人が道中に満ちていた。劉琨はこれらの苦難を取り除くと、遺骨を埋葬し、府朝を造り、市や獄を建てた。寇盗はたびたび不意を狙って襲い掛かったきたので、常に城門付近は戦場となった。百姓は楯を背負って耕作し、弓を備えながら雑草を刈り除いた。劉琨は百姓を慰労して回り、世間の実情をよく理解した。その為、他州に逃れていた流民は少しずつ帰郷するようになった。 当時、劉淵は離石におり、劉琨とは300里離れていた。劉琨は密かに使者を派遣して、劉淵の下にいる少数民族を離間させた。これにより劉琨に降伏する者は1万を超えた。 308年、劉淵は劉琨を甚だ憂慮し、蒲子に城を築いて都を移した。11月、劉琨は上党郡太守劉惇に鮮卑兵を与えて壷関を攻撃させ、鎮東将軍綦毋達を敗走させた。劉琨が着任して1年も経たぬ内に、晋陽に至る流民はさらに増え、飼っている鶏や犬の声が互いに聞こえる程、家は密集するようになった。戦乱を避けて劉琨に帰順する人士(教養・地位のある者を指す)も数多く、劉琨はこれをよく慰撫した。だが、上手く彼らを管理できなかったので、1日で劉琨を頼る者は数千人にも上ったが、去る者も多かったという。 309年4月、劉淵は征東大将軍王弥・楚王劉聡・前鋒都督石勒らを壷関攻略の為に派遣した。劉琨は黄粛と韓述を迎撃に当たらせたが、敗れて殺された。上党郡太守劉惇は壷関ごと漢に降伏したので、劉琨は都尉張倚を上党郡太守に任じ、襄垣を守らせた。その後、劉琨は漢の傘下に入った鉄弗部の劉虎を討伐した。その隙をついて劉聡が晋陽を攻撃したが、返り討ちにした。 310年7月、河内郡太守裴整が漢に捕縛されると、河内督将郭黙は残兵を纏めて塢主となった。劉琨は郭黙を後任の河内郡太守に任じ、漢を防がせた。
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