北方での活動とは? わかりやすく解説

北方での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/20 16:57 UTC 版)

帝洋丸 (タンカー)」の記事における「北方での活動」の解説

13日に帝洋丸は舞鶴出港し18日片岡湾に到着以降片岡湾を拠点にして行動し艦隊燃料補給した12月9日片岡湾を出港して14日舞鶴到着18日ボイラー重油5,475トン1号重油2,900トン搭載し24日舞鶴出港し29日片岡湾に到着以降片岡湾を拠点にして燃料補給従事1943年昭和18年2月15日兜山南方右舷錨鎖切断事故起こしている。24日日東興業汽船日東汽船改名3月1日には波浪により防舷物が破損4月3日片岡湾を出港し9日呉市の広に到着10日ボイラー重油8,094トン搭載し11日に呉に移動12日1号重油2,000トン搭載し、呉を出港14日舞鶴到着して整備を受ける。5月4日舞鶴出港し大湊経由16日片岡湾に到着以降片岡湾を拠点にして燃料補給従事し6月キスカ島撤退作戦にも参加7月22日から軍艦旗掲揚21日占守岬を出港し27日横須賀到着燃料補給燃料搭載して8月1日出港し4日大湊到着したが、8月5日機関故障発生したため搭載燃料陸揚げ以降大湊拠点行動27日大湊出港し館山経由して30日横須賀到着9月3日横浜に移動して、三菱重工業横浜造船所修理を受ける。完了後は内地行動し燃料補給従事12月28日には大湊出港し1944年昭和19年1月1日片岡湾に到着して燃料補給従事7日片岡湾を出港途中流氷閉ざされるトラブルがあったものの、12日室蘭到着以降内地行動し燃料補給従事26日からは横浜修理を受ける。以降内地行動し燃料補給等に従事

※この「北方での活動」の解説は、「帝洋丸 (タンカー)」の解説の一部です。
「北方での活動」を含む「帝洋丸 (タンカー)」の記事については、「帝洋丸 (タンカー)」の概要を参照ください。


北方での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 07:52 UTC 版)

阿武隈 (軽巡洋艦)」の記事における「北方での活動」の解説

5月20日第一水雷戦隊の「阿武隈」、第六駆逐隊第二十一駆逐隊北方部隊編入され、「阿武隈」は第二十一駆逐隊などとともにAQ攻略部隊AQアッツ)としてAL作戦西部アリューシャン攻略作戦)に参加したAQ攻略部隊5月29日川内湾を出撃6月7日夜にアッツ島ホルツ湾外に到着し8日には同島のチチャゴフを占領した9日、「阿武隈」と駆逐艦子日」、「初霜」はセミチ島の掃海及び基地調査行った10日AQ攻略部隊の編制解かれ、主隊(重巡洋艦那智」ほか)への合流命じられた「阿武隈」と第二十一駆逐隊(「子日」欠)は同日アッツ島離れたその後阿武隈」は主隊、次いで支援隊の一隻となり、ミッドウェー海戦敗れたことから敵艦襲来備えて各部隊邀撃作戦行っていたが6月24日までに大湊帰着した6月28日支援部隊を含む各部隊第二次邀撃作戦およびキスカ島への輸送部隊掩護のため再び出撃7月5日キスカ第十駆逐隊アメリカ潜水艦攻撃を受けると、損傷した不知火」、「」の応急修理のため「阿武隈」はキスカ派遣され7月7日キスカ到着した7月10日阿武隈第六第二十一駆逐隊護衛隊編成された。同日阿武隈」はキスカ離れ7月16日横須賀到着7月16日0040、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯3445分 東経14200分 / 北緯34.750度 東経142.000度 / 34.750; 142.000の犬吠埼南東170km地点付近補助監視船の武蔵丸東京都104トン)と衝突事故起こしている[要出典]。武蔵丸船尾大破し、翌17日特設監視艇第七号正栄丸(四宮102トン)の曳航横須賀到着した[要出典]。 「阿武隈」、駆逐艦初春」は8月4日横須賀出港し8月6日大湊到着8月8日アメリカ艦隊キスカ島砲撃すると、北方部隊指揮官第一水雷戦隊などに加熊別湾進出命じた。「阿武隈」は8月8日大湊出港し8月11日に加熊別湾に到着8月12日、加熊別湾に集結した艦隊(主隊、護衛隊)は出撃した。しかし、同日日本の本土東方不時着水偵を発見したとの報告があり、連合艦隊アメリカ機動部隊出現判断北方部隊の主隊、護衛隊南下して索敵従事することとなった。しかし、結局なにも発見されず、北方部隊の主隊、護衛隊8月16日大湊入港した発見誤報であったものと思われる8月27日アトカ島東部ナザン湾に敵巡洋艦発見報告があり、8月29日北方部隊の主隊、護衛隊大湊出港したが、台風のため加熊別湾に入泊した9月3日には今度は「呂号第六十二潜水艦」が巡洋艦等の発見報告し、「阿武隈」や第二十一戦隊などは再び出撃してアッツ島南西方面向かった。しかしアメリカ艦隊来襲はなく、主隊、「阿武隈」などは9月18日大湊帰投した。この間には陸軍部隊アッツ島からキスカ島への移駐が行われていた。監視艇からの敵味方不明飛行機発見報告受けて9月30日に主隊および護衛隊大湊から出撃するも、特に何もなかった。10月2日大湊帰着10月18日、「阿武隈」は片岡湾に進出10月末からアッツ島の再占領が行われた。そのために10月21日第一水雷戦隊軽巡洋艦多摩」、「木曾」で挺身輸送部隊編成された。10月27日から挺身輸送部隊陸軍米川部隊主力アッツ島輸送した陸軍部隊を運ぶのは「阿武隈」、「多摩」、「木曾」で、3隻は柏原湾や片岡湾で人員物件をのせて片岡湾へ移動10月27日挺身輸送部隊は主隊と共に出撃し、10月29日夜に揚陸行って11月1日片岡湾に帰投した。「阿武隈」の輸送人員物件計画では陸兵204名、海軍水上基地15名、海軍派遣通信隊員6名、速射砲2基、機銃2基、無線通信機弾薬等約30トンとなっている。11月10日、「阿武隈」は小樽着。「阿武隈」は「木曾とともに小樽アッツ島への増強部隊である独立野戦高射砲第二十四中隊独立工兵第三百二中隊独立無線第十小隊をのせた。計画では「阿武隈」の搭載内容人員235名、機銃2基、無線関係資材糧秣燃料弾薬であったその後アッツ島への輸送部隊(「阿武隈」、「木曾」、駆逐艦若葉」)と主隊は加熊別湾へ移動し11月23日同地出撃11月25日揚陸行って11月28日に加熊別湾に帰着した11月30日から「阿武隈」、「木曾」、「若葉」の3隻(K船団)は独立歩兵第三百二大隊主力幌筵からキスカ島輸送計画では「阿武隈乗艦者は259であった12月3日揚陸行って12月7日幌筵帰投復路では2隻は内地への帰還者(「阿武隈」は86名)を乗せていた。その後阿武隈」と「若葉」は佐世保向かって12月12日到着し修理防寒工事が行われた。 「阿武隈」は1月16日佐世保発。大湊経由1月24日幌筵到着した2月18日第十船団として第三十二防空隊第三設営隊基幹員および飛行場資材を運ぶ「粟田丸」を駆逐艦「電」とともに護衛して幌筵からキスカ島向けて出港このころアッツ島方面にはアメリカ艦艇出現し2月20日にはアッツ島向かっていた「あかがね丸」が撃沈されたが、「粟田丸」による輸送成功した。「阿武隈」と「電」は2月21日に「粟田丸」をキスカ島へ向かわせ、2月25日幌筵帰着したアメリカ水上部隊による「あかがね丸」撃沈により北方部隊はその大半輸送作戦投入することとなり、第一水雷戦隊駆逐艦2隻欠)は護衛部となった3月7日水上機飛行場資材人員等を運ぶ「君川丸」、「粟田丸」、「崎戸丸」の3隻(第二十一船団、イ船団)と護衛部隊および重巡洋艦那智」など巡洋艦4隻は3月7日幌筵海峡より出撃3月10日揚陸成功し3月13日全部幌筵海峡帰投した。 続いて2度目輸送作戦が行われたが、アメリカ艦隊遭遇してアッツ島沖海戦発生し輸送失敗した。 「阿武隈」は整備のため4月13日片岡湾発で舞鶴向かい4月17日到着した7月にはキスカ島撤退作戦(司令官:木村昌福少将)に参加し、1,202名を収容し帰投する。 1943年4月魚雷発射管直上付近シェルター甲板左右に25mm三連機銃2基を追加装備重量補償として5番主砲撤去同年11月横須賀工廠にて7番主砲撤去し跡に八九式12.7cm連装高角砲搭載する対空強化改装を受ける。 1944年3月大湊にてカタパルトほか航空兵装の撤去カタパルト跡地後部甲板に25mm三連機銃追加装備同年7月横須賀にて後22号電探装備。25mm単装機銃および13mm単装機銃多数増備同年10月内火艇2艇とカッター2艇をおろし25mm単装機銃10基を増備13号電探装備はされなかったと推測される

※この「北方での活動」の解説は、「阿武隈 (軽巡洋艦)」の解説の一部です。
「北方での活動」を含む「阿武隈 (軽巡洋艦)」の記事については、「阿武隈 (軽巡洋艦)」の概要を参照ください。


北方での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 16:36 UTC 版)

那智 (重巡洋艦)」の記事における「北方での活動」の解説

3月10日、「那智」は蘭印部隊から北方部隊編入第五戦隊旗艦は「妙高」に移った。 「那智」は3月17日佐世保入港し同地旗艦施設防寒設備工事が行われた。4月7日佐世保発、4月11日厚岸入港し第五艦隊司令長官旗艦となった4月18日敵機部隊発見の報に続き日本本土対す空襲があった。室蘭在泊中であった那智」は出港する第二十一戦隊合流し南東向かった4月19日、「那智」と第二十一戦隊攻撃受けて航行不能となっていた監視艇第二十一南進丸」を発見。。「第二十一南進丸」は軽巡洋艦木曾」が乗員収容しその後処分した4月25日、「那智」は横須賀帰着5月5日から6日にかけて巡洋艦大型発見報告があり、5月6日に「那智」も厚岸より出撃して軽巡洋艦多摩」や特設巡洋艦赤城丸とともに索敵を行うも何も発見されなかった。報告されたものが実際であったのかは不明である。「那智」は舵が故障し航行不能となった給油艦尻矢」を救援した後、5月12日厚岸帰投5月15日大湊入港。 「那智」は駆逐艦「電」、「雷」とともに主隊としてAL作戦西部アリューシャン攻略作戦)に参加した。主隊は5月29日川内湾を出港して6月2日に加熊別湾に着き翌日同地より出撃した。AL作戦同時に行われたミッドウェー海戦日本軍敗北したアッツ島キスカ島攻略実施された。そして主隊は空母部隊である第二機動部隊などとともにアメリカ艦隊来襲備えたその後、主隊などは6月24日までに一度大湊戻り6月28日にはキスカ島への輸送部隊掩護のため再び出撃した。一部7月7日帰途に就き残り他の任務就いた艦を除き7月18日までに横須賀帰投した。「那智」は7月14日横須賀入港同日、「那智」は第二十一戦隊編入された。横須賀では入渠防寒施設新設が行われた。また、艦尾への爆雷手動投下台2基装備と、内火艇2隻への爆雷投下台各1基の装備行われたものと思われる入渠中火災があったが、損傷軽微なものにとどまった8月2日に「那智」と駆逐艦初霜」は横須賀出港し8月6日に加熊別湾に着いたこのころの主隊は第二十一戦隊駆逐艦3隻であった8月8日アメリカ艦隊キスカ島砲撃北方部隊幌筵集結し8月12日北方部隊の主隊(駆逐艦1隻欠)と護衛隊アリューシャン方面向けて出撃した。しかし、同日日本の本土東方不時着水偵を発見したとの報告があり、連合艦隊アメリカ機動部隊出現判断北方部隊の主隊、護衛隊南下して索敵従事することとなった。しかし、結局なにも発見されず、北方部隊の主隊などは8月16日大湊入港した発見誤報であったものと思われる8月27日アトカ島東部ナザン湾に敵巡洋艦発見報告があり、8月29日北方部隊の主隊、護衛隊大湊出港したが、台風のため加熊別湾に入泊した9月3日には今度は「呂号第六十二潜水艦」が巡洋艦等の発見報告し第二十一戦隊などは再び出撃し、アッツ島南西方面向かった。しかしアメリカ艦隊来襲はなく、主隊などは9月18日大湊帰投した。この間には陸軍部隊アッツ島からキスカ島への移駐が行われていた。9月中頃の主隊は第二十一戦隊のみであった監視艇からの敵味方不明飛行機発見報告受けて9月30日に主隊および護衛隊大湊から出撃するも、特に何もなかった。 10月下旬からアッツ島の再占領が行われ、第二十一戦隊軽巡洋艦2隻は第一水雷戦隊と共に挺身輸送部隊となっている。「那智」は10月22日陸奥海湾出港し小樽陸軍船舶工兵40名を乗せて10月26日に加熊別湾に到着10月27日に主隊(「那智」、駆逐艦神風」)と挺身輸送隊出撃した。10月29日に主隊と別れた挺身輸送部隊10月29日から30日陸軍部隊アッツ島上陸させた。「那智」は11月1日幌筵戻りその後大湊移った続いてアッツ島への増強部隊輸送セミチ島の攻略挺身輸送部隊陸軍輸送船によって行われ、「那智」は駆逐艦薄雲とともに主隊としてアッツ島への輸送支援した。主隊およびアッツ島への輸送部隊11月20日小樽出港し、加熊別湾を経由してアッツ島へと向かった11月25日輸送部隊は主隊と分かれて揚陸行い完了両者合同し11月28日に加熊別湾に帰投した。 アムチトカ島へのアメリカ軍上陸受けて搭載機キスカ島へ送るため1943年1月24日に「那智」は駆逐艦若葉」の護衛幌筵出港したが、天候不良のため搭載機空輸行われなかった。「那智搭載機3機は2月に「君川丸」によってアッツ島運ばれたが、うち1機はキスカ島進出する際に行方不明となった。「那智」では予備水タンクなどで漏水発生したことから、その修理などのため1月29日幌筵出港して横須賀へと向かった第五艦隊司令長官旗艦を「多摩」に変更した横須賀には2月1日到着した修理佐世保で行うことに変更され2月5日佐世保到着して修理が行われた。また、この時には13ミリ連装機銃2基の撤去25ミリ連装機銃4基の装備や、電探装備準備工事なども行われた修理完了後、「那智」は2月27日出港し大湊経由3月4日幌筵到着して旗艦戻った1943年昭和18年3月7日から13日アッツ島への輸送作戦参加22日2度目輸送作戦幌筵島出撃27日には重巡洋艦摩耶」、軽巡洋艦阿武隈」、第六駆逐隊、電)、第二十一駆逐隊若葉初霜と共にアッツ島沖海戦参加し、米重巡洋艦ソルトレイクシティ」、軽巡洋艦リッチモンド」、駆逐艦ベイリー」、「コグラン英語版)」、「モナハン」、「デイル」と交戦する。だが、「ソルトレイクシティ」の攻撃を受け小破戦死11名、負傷21名)、米艦隊撃破にも失敗した被弾により主砲射撃盤故障したため各砲塔照準器による各個射撃となったが、日本海軍は砲側照準による射撃訓練実施しておらず、遠距離砲撃命中率は更に悪くなったという。 「那智」は4月3日横須賀入港し損傷修理21号電探電波探知機装備が行われた。5月11日幌筵向けて横須賀出港9月6日大湊から幌筵島向かっていた「那智」はアメリカ潜水艦ハリバット」の雷撃受けて魚雷2発が命中右舷後部煙突と舵付近)したが、ともに不発であった。1発は船体にへこみを生じさせたのみ、もう1発では浸水生じたものの航行には支障はなかった。時期10月中旬となっているなど若干食い違いはあるが、「那智乗組員であった竹本定男は次のように書いている。占守島泊地到着後、艦尾付近に魚雷頭部刺さっているのを発見した魚雷頭部は約1週間かけて引き抜かれ調査すべての起爆装置作動していないことが判明その後起爆装置横須賀海軍工廠送られた。 11月22日、「那智」は佐世保入港。2か月にわたる工事21号電探換装22号電探2基や2式哨信儀装備零式水中聴音機魚雷反対移動装置装備などが行われた。2月9日、「那智」は大湊戻った1944年昭和19年6月上旬マリアナ沖海戦日本海軍大敗サイパンの戦いアメリカ軍勝利マリアナ諸島占領)という形で終わりつつあった。そこで神重徳連合艦隊参謀戦艦山城巡洋艦那智足柄多摩木曽阿武隈等の第五艦隊サイパン島突入作戦発案アメリカ軍対し陸上砲撃をおこなう計画提案した第五艦隊内地戻り出撃準備を行うが、作戦実施されなかった。

※この「北方での活動」の解説は、「那智 (重巡洋艦)」の解説の一部です。
「北方での活動」を含む「那智 (重巡洋艦)」の記事については、「那智 (重巡洋艦)」の概要を参照ください。


北方での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 16:06 UTC 版)

アドミラル・ヒッパー (重巡洋艦)」の記事における「北方での活動」の解説

ノルウェー派遣となった「アドミラル・ヒッパー」は1942年3月18日キールより出航駆逐艦Z24」、「Z26」、「Z30」などの護衛トロンハイム向かい3月21日到着した7月2日に「アドミラル・ヒッパー」は戦艦ティルピッツ」などとともにトロンハイム出航しアルタフィヨルド進出5日、「ティルピッツ」、「アドミラル・ヒッパー」、「アドミラル・シェーア」などからなる艦隊PQ17船団攻撃のため出撃した(レッセルシュプルング作戦)。しかし、ドイツ艦隊は敵に発見され、またアルタフィヨルドドイツ艦隊存在知ったイギリス側4日船団分散命じていた。船団分散戦果挙げづらくなったことや敵に発見されていることから作戦中止となり、ドイツ艦隊反転帰投した。 9月5日、「アドミラル・ヒッパー」は「アドミラル・シェーア」、軽巡洋艦ケルン」などとともにBogen湾より出航アルタフィヨルド進出したこの際、この部隊イギリス潜水艦「タイグリス」の攻撃受けたが、被害はなかった。この移動PQ18船団攻撃のためであったが、ヒトラー命令によりそれは中止となった9月24日、「アドミラル・ヒッパー」は駆逐艦「Z23」、「Z28」、「Z29」、「Z30」に護衛されノヴァヤゼムリャ沖への機雷敷設向かった(Zarin作戦)。26日、「アドミラル・ヒッパー」はノヴァヤゼムリャ南西端沖に96個の機雷敷設した。この機雷原による戦果不明である。 10月1日、「アドミラル・ヒッパー」はエンジン修理のためBogen湾に移動10月25日にカーフィヨルドに戻り11月5日駆逐艦「リヒャルト・バイツェン」、「フリードリヒ・エッコルト」、「Z27」、「Z30」とともに独航船目標として出撃(Hoffnung作戦)。11月9日帰投するまでに「Z27」がソ連タンカー駆潜艇沈めた12月JW-51B船団攻撃虹作戦)に出撃31日戦闘により損傷したヴィルヘルムスハーフェン戻り、そこで解役されゴーテンハーフェン移動

※この「北方での活動」の解説は、「アドミラル・ヒッパー (重巡洋艦)」の解説の一部です。
「北方での活動」を含む「アドミラル・ヒッパー (重巡洋艦)」の記事については、「アドミラル・ヒッパー (重巡洋艦)」の概要を参照ください。


北方での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 16:35 UTC 版)

初霜 (初春型駆逐艦)」の記事における「北方での活動」の解説

第二十一駆逐隊5月20日北方部隊編入され軽巡洋艦阿武隈」などとともにAQ攻略部隊AQアッツ)としてAL作戦西部アリューシャン攻略作戦)に参加したAQ攻略部隊5月29日川内湾を出撃6月7日夜にアッツ島ホルツ湾外に到着し8日には同島のチチャゴフを占領した9日、「初霜」と「阿武隈」と駆逐艦子日」はセミチ島の掃海及び基地調査行った6月10日AQ攻略部隊の編制解かれ、主隊(重巡洋艦那智」ほか)への合流命じられた「阿武隈」と第二十一駆逐隊(「子日」欠)は同日アッツ島離れた第二十一駆逐隊(「子日」欠)は6月13日AOB攻略部隊AOBキスカ)に編入され同日キスカ島到着6月22日第二十一駆逐隊アガッツ島水上機部隊(「神川丸」、「君川丸」ほか)と合流した7月3日、「初霜」は、敵艦邀撃作戦中の部隊合流敵艦隊の出現はなく、その後部隊横須賀または柱島帰投した。「初霜」は温彌古丹海峡向かい資材を運ぶ「白山丸」をそこから護衛して7月16日キスカ到着同日、「初霜」は出港し7月23日横須賀着いたまた、7月10日に「阿武隈」、第六第二十一駆逐隊護衛隊編成された。 8月2日に「初霜」と重巡洋艦那智」は横須賀出港し8月6日に加熊別湾に着いた8月8日アメリカ艦隊キスカ島砲撃北方部隊幌筵集結し8月12日北方部隊の主隊と護衛隊アリューシャン方面向けて出撃した。しかし、同日日本の本土東方不時着水偵を発見したとの報告があり、連合艦隊アメリカ機動部隊出現判断北方部隊の主隊、護衛隊南下して索敵従事することとなった。しかし、結局なにも発見されず、北方部隊の主隊、護衛隊8月16日大湊入港した発見誤報であったものと思われる8月27日アトカ島東部ナザン湾に敵巡洋艦発見報告があり、8月29日北方部隊の主隊、護衛隊大湊出港したが、台風のため加熊別湾に入泊した9月3日陸軍部隊アッツ島からキスカ島への移駐における輸送船護衛のため「初霜」と「若葉」はアッツ島へ向け出港一方同日呂号第六十二潜水艦」が巡洋艦等の発見報告し、「阿武隈」や第二十一戦隊などは再び出撃してアッツ島南西方面向かった。「初霜」と「若葉」もそれに合流し輸送船退避させられた。しかし、アメリカ艦隊出現せず、移駐作戦再興のため9月7日に「初霜」と「若葉」は分離されアッツ島向かった。2隻は9月9日アッツ島到着し人員430名などをのせた「射水丸」をキスカ島まで護衛続いて初霜」は「長田丸」を護衛してアッツ島向かい、それから「初霜」、「長田丸」、「駒橋」、「陽光丸」の4隻でキスカ島への輸送行った。4隻は護衛の「第十四号駆潜艇」、「第十五号駆潜艇とともに9月17日アッツ島出発し翌日キスカ島到着同日、「初霜」は出港し9月23日大湊帰着した監視艇からの敵味方不明飛行機発見報告受けて9月30日に主隊および護衛隊大湊から出撃するも、特に何もなかった。10月2日大湊帰着10月18日に「初春」は片岡湾に向けて大湊発し10月20日到着即日出港し損傷した駆逐艦初春」とそれを曳航する「若葉」と合流して護衛行った10月末からアッツ島の再占領が行われた。そのために10月21日第一水雷戦隊軽巡洋艦多摩」、「木曾」で挺身輸送部隊編成された。挺身輸送部隊と主隊は加熊別湾に集結10月27日から挺身輸送部隊陸軍米川部隊主力アッツ島輸送した陸軍部隊乗せるのは巡洋艦3隻で、第二十一駆逐隊警戒であった10月26日挺身輸送部隊出撃したが、荒天のため「初春」で行方不明者が9名発生翌日あたらめて挺身輸送部隊は主隊と共に出撃し、10月29日夜に揚陸行って11月1日片岡湾に帰投した。11月7日から「初霜」、「若葉」、「薄雲」は北海守備隊司令部68名)などを幌筵からキスカ島輸送11月10日キスカ島着き11月13日片岡湾着。続いてアッツ島への増強部隊輸送、およびセミチ占領作戦が行われ、「初霜」は後者参加したセミチ攻略部隊は「初霜」、「多摩」と陸軍輸送船もんとりーる丸」、「八幡丸」でD船団称され11月24日片岡湾を出港した。しかし、アッツ島陸軍輸送船「ちえりぼん丸」が空襲にあい沈没したことでセミチ攻略延期となり、D船団引き返して12月2日片岡湾に戻った11月28日附で初霜駆逐艦長は、11月10日まで神風型駆逐艦5番旗風駆逐艦長だった入戸野焉生少佐交代する12月7日、「初霜」は大湊入港翌日特設水上機母艦君川丸とともに横須賀向かい12月9日到着その後横須賀載せた水上機アッツ島輸送する君川丸」を護衛12月16日に「君川丸とともに横須賀発し12月20日片岡湾着。12月23日に「君川丸」を護衛して出撃し、12月25日アッツ島到着して輸送完了した1943年1月4日に「初霜」は入渠修理のため佐世保向けて大湊出港し1月6日到着佐世保での入渠の際、40ミリ単装機銃2基の25ミリ連装機銃2基への換装が行われた。 1月31日佐世保発し2月4日柏原湾に着いた2月10日、「木曾とともに崎戸丸」を護衛してキスカ島向けて幌筵より出港。しかし、「崎戸丸」の舵機故障により引き返した2月13日第十船団として「崎戸丸」と「春幸丸」を「木曾」、「若葉とともに護衛してキスカ島向けて幌筵より出航。しかし、アメリカ水上部隊出現しアッツ島対す艦砲射撃があったことから、輸送断念され船団引き返した1943年昭和18年3月、第21駆逐隊初霜若葉)は重巡2隻(那智摩耶)の直衛としてアッツ島沖海戦参加日本艦隊那智第五艦隊旗艦》、摩耶多摩阿武隈第一水雷戦隊司令官森友一少将座乗》、若葉初霜)の稚拙な指揮砲戦雷撃戦により米艦隊撃破機会逃したアッツ島沖海戦で「初霜」は18000メートルの距離で魚雷5本を発射したまた、12.7センチ砲の発砲は6発であった輸送船護衛のため海戦参加できなかった電は第五艦隊戦闘酷評している。アッツ島への増援輸送船団反転余儀なくされ、第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将解任後日予備役編入)。本海戦アッツ島玉砕遠因となったひきつづき北方行動する21駆逐隊第五艦隊第一水雷戦隊編入され内地千島間の船団護衛従事。 「初霜」は「若葉」や重巡洋艦那智」、「摩耶とともに3月31日横須賀向かい4月3日に「初霜」と「若葉」は横須賀到着同地修理が行われた。 6月6日第一水雷戦隊司令官森友一少将急病倒れ6月8日附で木村昌福少将が同水雷戦隊司令官となる。7月、第21駆逐隊キスカ島撤退作戦に加わる。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将)の指揮のもと、収容部隊阿武隈木曾島風、響、朝雲薄雲長波秋雲夕雲風雲若葉初霜五月雨)、主隊(多摩)、燃料補給部隊国後日本丸)という戦力集結撤退作戦無事に完了した本作従事中の7月26日濃霧により海防艦国後軽巡阿武隈駆逐艦初霜若葉長波多重衝突事故起きる。損傷により若葉帰投余儀なくされ、また速力低下きたした初霜日本丸護衛まわされた。このため初霜キスカ島での陸兵救出作業には従事していない。初霜幌筵応急修理後、千島方面船団護衛従事した11月17日入戸野初霜艦長)は陽炎型駆逐艦19番秋雲駆逐艦長転任入戸野は、翌年4月11日に「秋雲」が米潜水艦レッドフィンに撃沈された際、戦死)。後任初霜駆逐艦長は、11月2日まで神風4番松風駆逐艦長だった滝川孝司少佐となる。

※この「北方での活動」の解説は、「初霜 (初春型駆逐艦)」の解説の一部です。
「北方での活動」を含む「初霜 (初春型駆逐艦)」の記事については、「初霜 (初春型駆逐艦)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「北方での活動」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北方での活動」の関連用語

北方での活動のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北方での活動のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの帝洋丸 (タンカー) (改訂履歴)、阿武隈 (軽巡洋艦) (改訂履歴)、那智 (重巡洋艦) (改訂履歴)、アドミラル・ヒッパー (重巡洋艦) (改訂履歴)、初霜 (初春型駆逐艦) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS