北方での活動
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「帝洋丸 (タンカー)」の記事における「北方での活動」の解説
13日に帝洋丸は舞鶴を出港し、18日に片岡湾に到着。以降は片岡湾を拠点にして行動し、艦隊に燃料を補給した。12月9日、片岡湾を出港して14日に舞鶴に到着。18日にボイラー用重油5,475トン、1号重油2,900トンを搭載し、24日に舞鶴を出港し、29日に片岡湾に到着。以降は片岡湾を拠点にして燃料補給に従事。1943年(昭和18年)2月15日、兜山南方で右舷錨鎖の切断事故を起こしている。24日、日東興業汽船が日東汽船に改名。3月1日には波浪により防舷物が破損。4月3日、片岡湾を出港し、9日に呉市の広に到着。10日にボイラー用重油8,094トンを搭載し、11日に呉に移動。12日に1号重油2,000トンを搭載し、呉を出港。14日に舞鶴に到着して整備を受ける。5月4日、舞鶴を出港し、大湊経由で16日に片岡湾に到着。以降は片岡湾を拠点にして燃料補給に従事し、6月のキスカ島撤退作戦にも参加。7月22日から軍艦旗を掲揚。21日、占守岬を出港し、27日に横須賀に到着。燃料と補給用燃料を搭載して8月1日に出港し、4日に大湊に到着したが、8月5日に機関故障が発生したため搭載燃料を陸揚げ。以降は大湊を拠点に行動。27日、大湊を出港し、館山を経由して30日に横須賀に到着。9月3日に横浜に移動して、三菱重工業横浜造船所で修理を受ける。完了後は内地で行動し、燃料補給に従事。12月28日には大湊を出港し、1944年(昭和19年)1月1日に片岡湾に到着して燃料補給に従事。7日、片岡湾を出港。途中流氷に閉ざされるトラブルがあったものの、12日に室蘭に到着。以降も内地で行動し、燃料補給に従事。26日からは横浜で修理を受ける。以降も内地で行動し、燃料補給等に従事。
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北方での活動
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「阿武隈 (軽巡洋艦)」の記事における「北方での活動」の解説
5月20日に第一水雷戦隊の「阿武隈」、第六駆逐隊、第二十一駆逐隊は北方部隊に編入され、「阿武隈」は第二十一駆逐隊などとともにAQ攻略部隊(AQはアッツ)としてAL作戦(西部アリューシャン攻略作戦)に参加した。AQ攻略部隊は5月29日に川内湾を出撃。6月7日夜にアッツ島ホルツ湾外に到着し、8日には同島のチチャゴフを占領した。9日、「阿武隈」と駆逐艦「子日」、「初霜」はセミチ島の掃海及び基地調査を行った。10日にAQ攻略部隊の編制は解かれ、主隊(重巡洋艦「那智」ほか)への合流を命じられた「阿武隈」と第二十一駆逐隊(「子日」欠)は同日アッツ島を離れた。その後「阿武隈」は主隊、次いで支援隊の一隻となり、ミッドウェー海戦で敗れたことから敵艦隊襲来に備えて各部隊は邀撃作戦を行っていたが6月24日までに大湊に帰着した。6月28日、支援部隊を含む各部隊は第二次邀撃作戦およびキスカ島への輸送部隊掩護のため再び出撃。7月5日にキスカで第十八駆逐隊がアメリカ潜水艦の攻撃を受けると、損傷した「不知火」、「霞」の応急修理のため「阿武隈」はキスカへ派遣され、7月7日にキスカに到着した。7月10日、阿武隈と第六、第二十一駆逐隊で護衛隊が編成された。同日「阿武隈」はキスカを離れ、7月16日に横須賀到着。7月16日0040、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度45分 東経142度00分 / 北緯34.750度 東経142.000度 / 34.750; 142.000の犬吠埼南東170km地点付近で補助監視船の武蔵丸(東京都、104トン)と衝突事故を起こしている[要出典]。武蔵丸は船尾を大破し、翌17日に特設監視艇第七号正栄丸(四宮爲藏、102トン)の曳航で横須賀に到着した[要出典]。 「阿武隈」、駆逐艦「初春」は8月4日に横須賀を出港し、8月6日に大湊に到着。8月8日にアメリカ艦隊がキスカ島を砲撃すると、北方部隊指揮官は第一水雷戦隊などに加熊別湾進出を命じた。「阿武隈」は8月8日に大湊を出港し、8月11日に加熊別湾に到着。8月12日、加熊別湾に集結した艦隊(主隊、護衛隊)は出撃した。しかし、同日日本の本土東方で不時着水偵を発見したとの報告があり、連合艦隊はアメリカ機動部隊出現と判断。北方部隊の主隊、護衛隊も南下して索敵に従事することとなった。しかし、結局なにも発見されず、北方部隊の主隊、護衛隊は8月16日に大湊に入港した。水偵発見は誤報であったものと思われる。 8月27日にアトカ島東部のナザン湾に敵巡洋艦等発見の報告があり、8月29日に北方部隊の主隊、護衛隊は大湊を出港したが、台風のため加熊別湾に入泊した。9月3日には今度は「呂号第六十二潜水艦」が巡洋艦等の発見を報告し、「阿武隈」や第二十一戦隊などは再び出撃してアッツ島南西方面へ向かった。しかしアメリカ艦隊の来襲はなく、主隊、「阿武隈」などは9月18日に大湊に帰投した。この間には陸軍部隊のアッツ島からキスカ島への移駐が行われていた。監視艇からの敵味方不明の飛行機発見の報告を受けて9月30日に主隊および護衛隊は大湊から出撃するも、特に何もなかった。10月2日、大湊に帰着。 10月18日、「阿武隈」は片岡湾に進出。10月末からアッツ島の再占領が行われた。そのために10月21日に第一水雷戦隊と軽巡洋艦「多摩」、「木曾」で挺身輸送部隊が編成された。10月27日から挺身輸送部隊は陸軍米川部隊主力をアッツ島へ輸送した。陸軍部隊を運ぶのは「阿武隈」、「多摩」、「木曾」で、3隻は柏原湾や片岡湾で人員、物件をのせて片岡湾へ移動。10月27日に挺身輸送部隊は主隊と共に出撃し、10月29日夜に揚陸を行って11月1日に片岡湾に帰投した。「阿武隈」の輸送人員、物件は計画では陸兵204名、海軍水上基地員15名、海軍派遣通信隊員6名、速射砲2基、機銃2基、無線通信機、弾薬等約30トンとなっている。11月10日、「阿武隈」は小樽着。「阿武隈」は「木曾」とともに小樽でアッツ島への増強部隊である独立野戦高射砲第二十四中隊、独立工兵第三百二中隊、独立無線第十一小隊をのせた。計画では「阿武隈」の搭載内容は人員235名、機銃2基、無線関係資材、糧秣燃料弾薬等であった。その後アッツ島への輸送部隊(「阿武隈」、「木曾」、駆逐艦「若葉」)と主隊は加熊別湾へ移動し、11月23日に同地を出撃。11月25日に揚陸を行って11月28日に加熊別湾に帰着した。11月30日から「阿武隈」、「木曾」、「若葉」の3隻(K船団)は独立歩兵第三百二大隊主力を幌筵からキスカ島へ輸送。計画では「阿武隈」乗艦者は259名であった。12月3日に揚陸を行って12月7日に幌筵に帰投。復路では2隻は内地への帰還者(「阿武隈」は86名)を乗せていた。その後「阿武隈」と「若葉」は佐世保へ向かって12月12日に到着し、修理や防寒工事が行われた。 「阿武隈」は1月16日佐世保発。大湊経由で1月24日に幌筵に到着した。2月18日、第十五船団として第三十二防空隊、第三十設営隊基幹員および飛行場資材を運ぶ「粟田丸」を駆逐艦「電」とともに護衛して幌筵からキスカ島へ向けて出港。このころアッツ島方面にはアメリカ艦艇が出現し、2月20日にはアッツ島へ向かっていた「あかがね丸」が撃沈されたが、「粟田丸」による輸送は成功した。「阿武隈」と「電」は2月21日に「粟田丸」をキスカ島へ向かわせ、2月25日に幌筵に帰着した。 アメリカ水上部隊による「あかがね丸」撃沈により北方部隊はその大半を輸送作戦に投入することとなり、第一水雷戦隊(駆逐艦2隻欠)は護衛部隊となった。3月7日、水上機や飛行場資材、人員等を運ぶ「君川丸」、「粟田丸」、「崎戸丸」の3隻(第二十一船団、イ船団)と護衛部隊および重巡洋艦「那智」など巡洋艦4隻は3月7日に幌筵海峡より出撃。3月10日に揚陸成功し、3月13日に全部隊幌筵海峡に帰投した。 続いて2度目の輸送作戦が行われたが、アメリカ艦隊と遭遇してアッツ島沖海戦が発生し、輸送は失敗した。 「阿武隈」は整備のため4月13日に片岡湾発で舞鶴へ向かい、4月17日に到着した。 7月にはキスカ島撤退作戦(司令官:木村昌福少将)に参加し、1,202名を収容し帰投する。 1943年4月、魚雷発射管直上付近のシェルター甲板左右に25mm三連装機銃2基を追加装備。重量補償として5番主砲を撤去。同年11月、横須賀工廠にて7番主砲を撤去し跡に八九式12.7cm連装高角砲を搭載する対空強化改装を受ける。 1944年3月、大湊にてカタパルトほか航空兵装の撤去。カタパルト跡地と後部甲板に25mm三連装機銃を追加装備。同年7月、横須賀にて後楼に22号電探を装備。25mm単装機銃および13mm単装機銃多数を増備。同年10月、内火艇2艇とカッター2艇をおろし25mm単装機銃10基を増備。13号電探の装備はされなかったと推測される。
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北方での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 16:36 UTC 版)
3月10日、「那智」は蘭印部隊から北方部隊に編入、第五戦隊旗艦は「妙高」に移った。 「那智」は3月17日に佐世保に入港し、同地で旗艦施設、防寒設備の工事等が行われた。4月7日佐世保発、4月11日厚岸に入港し第五艦隊司令長官の旗艦となった。 4月18日、敵機動部隊発見の報に続き、日本本土に対する空襲があった。室蘭在泊中であった「那智」は出港すると第二十一戦隊と合流し、南東へ向かった。4月19日、「那智」と第二十一戦隊は攻撃を受けて航行不能となっていた監視艇「第二十一南進丸」を発見。。「第二十一南進丸」は軽巡洋艦「木曾」が乗員を収容し、その後処分した。4月25日、「那智」は横須賀に帰着。 5月5日から6日にかけて巡洋艦や大型機発見の報告があり、5月6日に「那智」も厚岸より出撃して軽巡洋艦「多摩」や特設巡洋艦「赤城丸」とともに索敵を行うも何も発見されなかった。報告されたものが実際何であったのかは不明である。「那智」は舵が故障し航行不能となった給油艦「尻矢」を救援した後、5月12日に厚岸に帰投。5月15日、大湊入港。 「那智」は駆逐艦「電」、「雷」とともに主隊としてAL作戦(西部アリューシャン攻略作戦)に参加した。主隊は5月29日に川内湾を出港して6月2日に加熊別湾に着き、翌日同地より出撃した。AL作戦と同時に行われたミッドウェー海戦で日本軍は敗北したがアッツ島とキスカ島の攻略は実施された。そして主隊は空母部隊である第二機動部隊などとともにアメリカ艦隊の来襲に備えた。その後、主隊などは6月24日までに一度大湊機戻り、6月28日にはキスカ島への輸送部隊掩護のため再び出撃した。一部は7月7日に帰途に就き、残りも他の任務に就いた艦を除き7月18日までに横須賀に帰投した。「那智」は7月14日に横須賀に入港。同日、「那智」は第二十一戦隊に編入された。横須賀では入渠し防寒施設の新設等が行われた。また、艦尾への爆雷手動投下台2基装備と、内火艇2隻への爆雷投下台各1基の装備も行われたものと思われる。入渠中火災があったが、損傷は軽微なものにとどまった。 8月2日に「那智」と駆逐艦「初霜」は横須賀を出港し、8月6日に加熊別湾に着いた。このころの主隊は第二十一戦隊と駆逐艦3隻であった。8月8日、アメリカ艦隊がキスカ島を砲撃。北方部隊は幌筵に集結し、8月12日に北方部隊の主隊(駆逐艦1隻欠)と護衛隊がアリューシャン方面へ向けて出撃した。しかし、同日日本の本土東方で不時着水偵を発見したとの報告があり、連合艦隊はアメリカ機動部隊出現と判断。北方部隊の主隊、護衛隊も南下して索敵に従事することとなった。しかし、結局なにも発見されず、北方部隊の主隊などは8月16日に大湊に入港した。水偵発見は誤報であったものと思われる。 8月27日にアトカ島東部のナザン湾に敵巡洋艦等発見の報告があり、8月29日に北方部隊の主隊、護衛隊は大湊を出港したが、台風のため加熊別湾に入泊した。9月3日には今度は「呂号第六十二潜水艦」が巡洋艦等の発見を報告し、第二十一戦隊などは再び出撃し、アッツ島南西方面へ向かった。しかしアメリカ艦隊の来襲はなく、主隊などは9月18日に大湊に帰投した。この間には陸軍部隊のアッツ島からキスカ島への移駐が行われていた。9月中頃の主隊は第二十一戦隊のみであった。監視艇からの敵味方不明の飛行機発見の報告を受けて9月30日に主隊および護衛隊は大湊から出撃するも、特に何もなかった。 10月下旬からアッツ島の再占領が行われ、第二十一戦隊の軽巡洋艦2隻は第一水雷戦隊と共に挺身輸送部隊となっている。「那智」は10月22日に陸奥海湾を出港し、小樽で陸軍船舶工兵40名を乗せて10月26日に加熊別湾に到着。10月27日に主隊(「那智」、駆逐艦「神風」)と挺身輸送隊は出撃した。10月29日に主隊と別れた挺身輸送部隊は10月29日から30日に陸軍部隊をアッツ島に上陸させた。「那智」は11月1日に幌筵に戻り、その後大湊へ移った。続いてアッツ島への増強部隊の輸送とセミチ島の攻略が挺身輸送部隊や陸軍輸送船によって行われ、「那智」は駆逐艦「薄雲」とともに主隊としてアッツ島への輸送を支援した。主隊およびアッツ島への輸送部隊は11月20日に小樽を出港し、加熊別湾を経由してアッツ島へと向かった。11月25日に輸送部隊は主隊と分かれて揚陸を行い、完了後両者は合同して11月28日に加熊別湾に帰投した。 アムチトカ島へのアメリカ軍上陸を受けて搭載機をキスカ島へ送るため1943年1月24日に「那智」は駆逐艦「若葉」の護衛で幌筵を出港したが、天候不良のため搭載機の空輸は行われなかった。「那智」搭載機3機は2月に「君川丸」によってアッツ島へ運ばれたが、うち1機はキスカ島へ進出する際に行方不明となった。「那智」では予備水タンクなどで漏水が発生したことから、その修理などのため1月29日に幌筵を出港して横須賀へと向かった。第五艦隊司令長官は旗艦を「多摩」に変更した。横須賀には2月1日に到着したが修理は佐世保で行うことに変更され、2月5日に佐世保に到着して修理が行われた。また、この時には13ミリ連装機銃2基の撤去と25ミリ連装機銃4基の装備や、電探の装備準備工事なども行われた。修理完了後、「那智」は2月27日に出港し、大湊経由で3月4日に幌筵に到着して旗艦に戻った。 1943年(昭和18年)3月7日から13日、アッツ島への輸送作戦に参加。22日、2度目の輸送作戦で幌筵島を出撃。27日には重巡洋艦「摩耶」、軽巡洋艦「阿武隈」、第六駆逐隊(雷、電)、第二十一駆逐隊(若葉、初霜)と共にアッツ島沖海戦に参加し、米重巡洋艦「ソルトレイクシティ」、軽巡洋艦「リッチモンド」、駆逐艦「ベイリー」、「コグラン(英語版)」、「モナハン」、「デイル」と交戦する。だが、「ソルトレイクシティ」の攻撃を受け小破(戦死11名、負傷21名)、米艦隊の撃破にも失敗した。被弾により主砲射撃盤が故障したため各砲塔の照準器による各個射撃となったが、日本海軍は砲側照準による射撃訓練を実施しておらず、遠距離砲撃の命中率は更に悪くなったという。 「那智」は4月3日に横須賀に入港し、損傷の修理や21号電探、電波探知機の装備が行われた。5月11日、幌筵へ向けて横須賀を出港。 9月6日、大湊から幌筵島に向かっていた「那智」はアメリカ潜水艦「ハリバット」の雷撃を受けて魚雷2発が命中(右舷の後部煙突と舵付近)したが、ともに不発であった。1発は船体にへこみを生じさせたのみ、もう1発では浸水が生じたものの航行には支障はなかった。時期が10月中旬となっているなど若干の食い違いはあるが、「那智」乗組員であった竹本定男は次のように書いている。占守島泊地に到着後、艦尾付近に魚雷の頭部が刺さっているのを発見した。魚雷頭部は約1週間かけて引き抜かれ、調査ですべての起爆装置が作動していないことが判明。その後、起爆装置は横須賀海軍工廠に送られた。 11月22日、「那智」は佐世保に入港。2か月にわたる工事で21号電探の換装、22号電探2基や2式哨信儀装備、零式水中聴音機、魚雷反対舷移動装置の装備などが行われた。2月9日、「那智」は大湊に戻った。 1944年(昭和19年)6月上旬、マリアナ沖海戦で日本海軍は大敗。サイパンの戦いはアメリカ軍の勝利(マリアナ諸島の占領)という形で終わりつつあった。そこで神重徳連合艦隊参謀は戦艦山城、巡洋艦那智、足柄、多摩、木曽、阿武隈等の第五艦隊サイパン島突入作戦を発案、アメリカ軍に対し陸上砲撃をおこなう計画を提案した。第五艦隊は内地に戻り出撃準備を行うが、作戦は実施されなかった。
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北方での活動
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「アドミラル・ヒッパー (重巡洋艦)」の記事における「北方での活動」の解説
ノルウェー派遣となった「アドミラル・ヒッパー」は1942年3月18日にキールより出航。駆逐艦「Z24」、「Z26」、「Z30」などの護衛でトロンハイムへ向かい、3月21日に到着した。 7月2日に「アドミラル・ヒッパー」は戦艦「ティルピッツ」などとともにトロンハイムを出航し、アルタフィヨルドに進出。5日、「ティルピッツ」、「アドミラル・ヒッパー」、「アドミラル・シェーア」などからなる艦隊がPQ17船団攻撃のため出撃した(レッセルシュプルング作戦)。しかし、ドイツ艦隊は敵に発見され、またアルタフィヨルドのドイツ艦隊の存在を知ったイギリス側は4日に船団の分散を命じていた。船団の分散で戦果を挙げづらくなったことや敵に発見されていることから作戦は中止となり、ドイツ艦隊は反転、帰投した。 9月5日、「アドミラル・ヒッパー」は「アドミラル・シェーア」、軽巡洋艦「ケルン」などとともにBogen湾より出航。アルタフィヨルドへ進出した。この際、この部隊はイギリス潜水艦「タイグリス」の攻撃を受けたが、被害はなかった。この移動はPQ18船団攻撃のためであったが、ヒトラーの命令によりそれは中止となった。 9月24日、「アドミラル・ヒッパー」は駆逐艦「Z23」、「Z28」、「Z29」、「Z30」に護衛されノヴァヤゼムリャ沖への機雷敷設に向かった(Zarin作戦)。26日、「アドミラル・ヒッパー」はノヴァヤゼムリャ南西端沖に96個の機雷を敷設した。この機雷原による戦果は不明である。 10月1日、「アドミラル・ヒッパー」はエンジン修理のためBogen湾に移動。10月25日にカーフィヨルドに戻り、11月5日に駆逐艦「リヒャルト・バイツェン」、「フリードリヒ・エッコルト」、「Z27」、「Z30」とともに敵独航船を目標として出撃(Hoffnung作戦)。11月9日に帰投するまでに「Z27」がソ連のタンカーと駆潜艇を沈めた。 12月JW-51B船団攻撃(虹作戦)に出撃、31日戦闘により損傷した。ヴィルヘルムスハーフェンに戻り、そこで解役されゴーテンハーフェンに移動。
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北方での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 16:35 UTC 版)
「初霜 (初春型駆逐艦)」の記事における「北方での活動」の解説
第二十一駆逐隊は5月20日に北方部隊に編入され、軽巡洋艦「阿武隈」などとともにAQ攻略部隊(AQはアッツ)としてAL作戦(西部アリューシャン攻略作戦)に参加した。AQ攻略部隊は5月29日に川内湾を出撃。6月7日夜にアッツ島ホルツ湾外に到着し、8日には同島のチチャゴフを占領した。9日、「初霜」と「阿武隈」と駆逐艦「子日」はセミチ島の掃海及び基地調査を行った。6月10日にAQ攻略部隊の編制は解かれ、主隊(重巡洋艦「那智」ほか)への合流を命じられた「阿武隈」と第二十一駆逐隊(「子日」欠)は同日アッツ島を離れた。第二十一駆逐隊(「子日」欠)は6月13日にAOB攻略部隊(AOBはキスカ)に編入され、同日キスカ島到着。6月22日、第二十一駆逐隊はアガッツ島で水上機部隊(「神川丸」、「君川丸」ほか)と合流した。7月3日、「初霜」は、敵艦隊邀撃作戦中の部隊に合流。敵艦隊の出現はなく、その後部隊は横須賀または柱島に帰投した。「初霜」は温彌古丹海峡へ向かい、資材を運ぶ「白山丸」をそこから護衛して7月16日にキスカに到着。同日、「初霜」は出港し、7月23日に横須賀に着いた。また、7月10日に「阿武隈」、第六、第二十一駆逐隊で護衛隊が編成された。 8月2日に「初霜」と重巡洋艦「那智」は横須賀を出港し、8月6日に加熊別湾に着いた。8月8日、アメリカ艦隊がキスカ島を砲撃。北方部隊は幌筵に集結し、8月12日に北方部隊の主隊と護衛隊がアリューシャン方面へ向けて出撃した。しかし、同日日本の本土東方で不時着水偵を発見したとの報告があり、連合艦隊はアメリカ機動部隊出現と判断。北方部隊の主隊、護衛隊も南下して索敵に従事することとなった。しかし、結局なにも発見されず、北方部隊の主隊、護衛隊は8月16日に大湊に入港した。水偵発見は誤報であったものと思われる。 8月27日にアトカ島東部のナザン湾に敵巡洋艦等発見の報告があり、8月29日に北方部隊の主隊、護衛隊は大湊を出港したが、台風のため加熊別湾に入泊した。9月3日、陸軍部隊のアッツ島からキスカ島への移駐における輸送船護衛のため「初霜」と「若葉」はアッツ島へ向け出港。一方、同日「呂号第六十二潜水艦」が巡洋艦等の発見を報告し、「阿武隈」や第二十一戦隊などは再び出撃してアッツ島南西方面へ向かった。「初霜」と「若葉」もそれに合流し、輸送船は退避させられた。しかし、アメリカ艦隊は出現せず、移駐作戦再興のため9月7日に「初霜」と「若葉」は分離されてアッツ島へ向かった。2隻は9月9日にアッツ島に到着し、人員430名などをのせた「射水丸」をキスカ島まで護衛。続いて「初霜」は「長田丸」を護衛してアッツ島に向かい、それから「初霜」、「長田丸」、「駒橋」、「陽光丸」の4隻でキスカ島への輸送を行った。4隻は護衛の「第十四号駆潜艇」、「第十五号駆潜艇」とともに9月17日にアッツ島を出発し、翌日キスカ島に到着。同日、「初霜」は出港し、9月23日に大湊に帰着した。 監視艇からの敵味方不明の飛行機発見の報告を受けて9月30日に主隊および護衛隊は大湊から出撃するも、特に何もなかった。10月2日、大湊に帰着。 10月18日に「初春」は片岡湾に向けて大湊を発し、10月20日に到着。即日出港し、損傷した駆逐艦「初春」とそれを曳航する「若葉」と合流して護衛を行った。 10月末からアッツ島の再占領が行われた。そのために10月21日に第一水雷戦隊と軽巡洋艦「多摩」、「木曾」で挺身輸送部隊が編成された。挺身輸送部隊と主隊は加熊別湾に集結。10月27日から挺身輸送部隊は陸軍米川部隊主力をアッツ島へ輸送した。陸軍部隊を乗せるのは巡洋艦3隻で、第二十一駆逐隊は警戒隊であった。10月26日に挺身輸送部隊は出撃したが、荒天のため「初春」で行方不明者が9名発生。翌日あたらめて挺身輸送部隊は主隊と共に出撃し、10月29日夜に揚陸を行って11月1日に片岡湾に帰投した。11月7日から「初霜」、「若葉」、「薄雲」は北海守備隊司令部(68名)などを幌筵からキスカ島へ輸送。11月10日にキスカ島に着き、11月13日に片岡湾着。続いてアッツ島への増強部隊の輸送、およびセミチ占領作戦が行われ、「初霜」は後者に参加した。セミチ攻略部隊は「初霜」、「多摩」と陸軍輸送船「もんとりーる丸」、「八幡丸」でD船団と称され、11月24日に片岡湾を出港した。しかし、アッツ島で陸軍輸送船「ちえりぼん丸」が空襲にあい沈没したことでセミチ攻略は延期となり、D船団は引き返して12月2日に片岡湾に戻った。 11月28日附で初霜駆逐艦長は、11月10日まで神風型駆逐艦5番艦旗風駆逐艦長だった入戸野焉生少佐に交代する。 12月7日、「初霜」は大湊入港。翌日、特設水上機母艦「君川丸」とともに横須賀へ向かい、12月9日に到着。その後、横須賀で載せた水上機をアッツ島へ輸送する「君川丸」を護衛。12月16日に「君川丸」とともに横須賀を発し、12月20日に片岡湾着。12月23日に「君川丸」を護衛して出撃し、12月25日にアッツ島に到着して輸送を完了した。 1943年1月4日に「初霜」は入渠修理のため佐世保へ向けて大湊を出港し、1月6日に到着。佐世保での入渠の際、40ミリ単装機銃2基の25ミリ連装機銃2基への換装が行われた。 1月31日に佐世保を発し、2月4日に柏原湾に着いた。2月10日、「木曾」とともに「崎戸丸」を護衛してキスカ島へ向けて幌筵より出港。しかし、「崎戸丸」の舵機故障により引き返した。2月13日、第十四船団として「崎戸丸」と「春幸丸」を「木曾」、「若葉」とともに護衛してキスカ島へ向けて幌筵より出航。しかし、アメリカ水上部隊が出現しアッツ島に対する艦砲射撃があったことから、輸送は断念され船団は引き返した。 1943年(昭和18年)3月、第21駆逐隊(初霜、若葉)は重巡2隻(那智、摩耶)の直衛としてアッツ島沖海戦に参加。日本艦隊(那智《第五艦隊旗艦》、摩耶、多摩、阿武隈《第一水雷戦隊司令官森友一少将座乗》、若葉、初霜、雷)の稚拙な指揮や砲戦・雷撃戦により米艦隊撃破の機会を逃した。アッツ島沖海戦で「初霜」は18000メートルの距離で魚雷5本を発射した。また、12.7センチ砲の発砲は6発であった。輸送船の護衛のため海戦に参加できなかった電は第五艦隊の戦闘を酷評している。アッツ島への増援輸送船団は反転を余儀なくされ、第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将は解任(後日、予備役編入)。本海戦はアッツ島玉砕の遠因となった。 ひきつづき北方で行動する第21駆逐隊は第五艦隊・第一水雷戦隊に編入され、内地と千島間の船団護衛に従事。 「初霜」は「若葉」や重巡洋艦「那智」、「摩耶」とともに3月31日に横須賀へ向かい、4月3日に「初霜」と「若葉」は横須賀に到着。同地で修理が行われた。 6月6日、第一水雷戦隊司令官森友一少将が急病で倒れ、6月8日附で木村昌福少将が同水雷戦隊司令官となる。7月、第21駆逐隊はキスカ島撤退作戦に加わる。第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)の指揮のもと、収容部隊(阿武隈、木曾、島風、響、朝雲、薄雲、長波、秋雲、夕雲、風雲、若葉、初霜、五月雨)、主隊(多摩)、燃料補給部隊(国後、日本丸)という戦力が集結、撤退作戦は無事に完了した。本作戦従事中の7月26日、濃霧により海防艦国後、軽巡阿武隈、駆逐艦初霜、若葉、長波の多重衝突事故が起きる。損傷により若葉は帰投を余儀なくされ、また速力低下をきたした初霜も日本丸護衛にまわされた。このため初霜はキスカ島での陸兵救出作業には従事していない。初霜は幌筵で応急修理後、千島方面の船団護衛に従事した。 11月17日、入戸野(初霜艦長)は陽炎型駆逐艦19番艦秋雲駆逐艦長へ転任(入戸野は、翌年4月11日に「秋雲」が米潜水艦レッドフィンに撃沈された際、戦死)。後任の初霜駆逐艦長は、11月2日まで神風型4番艦松風駆逐艦長だった滝川孝司少佐となる。
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