北方の王者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:41 UTC 版)
保元2年(1157年)、父・基衡の死去を受けて家督を相続する。奥六郡の主となり、出羽国・陸奥国の押領使となる。両国の一円に及ぶ軍事・警察の権限を司る官職であり、諸郡の郡司らを主体とする武士団17万騎を統率するものであった。 この頃、都では保元の乱・平治の乱の動乱を経て平家全盛期を迎えるが、秀衡は遠く奥州にあって独自の勢力を保っていた。この時代、奥州藤原氏が館をおいた平泉は平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す大都市であった。秀衡の財力は奥州名産の馬と金によって支えられ、豊富な財力を以て度々中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進などを行って評価を高めた。また陸奥守として下向した院近臣・藤原基成の娘と婚姻し、中央政界とも繋がりを持った。 嘉応2年(1170年)5月25日、従五位下・鎮守府将軍に叙任される。右大臣・九条兼実は『玉葉』の中で、秀衡を「奥州の夷狄」と呼び、その就任を「乱世の基」と嘆いている。都の貴族達は奥州藤原氏の計り知れない財力を認識し、その武力が天下の形勢に関わることを恐れながらも、得体の知れない蛮族と蔑む傾向があった。この「奥州の夷狄」や「蝦夷」という蔑称を秀衡は意識していたと考えられており、源平の合戦の際に一つの勢力に加担しなかったのも、普段は蔑称を用いて蔑む傾向があるのに自分達に都合のいい時に奥州藤原氏を頼ろうとする姿勢に不満を抱いていたことも中立の立場を堅持した理由ともされる。
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