保元の乱・平治の乱
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源為義は白河院に近侍したものの、自身、郎党、八男の鎮西八郎為朝等の狼藉行動で信を失い摂関家へ接近した。一方で長男の源義朝は南関東に下向して勢力を伸ばし、白河院へ仕えて父とは別行動をとった。この際、当時の武蔵守藤原信頼に接近したとされる。義朝は、荒加賀入道義国とも結ぶことに成功し関東で力をつけ、さらに院の影響下で京都へ復帰した。一方、父の為義は義朝の弟の義賢を義朝の支配の及ばない北関東へ派遣した。秩父氏の争いもかかわって義賢は義朝の長男の義平(鎌倉悪源太)と対立したが、大蔵合戦で義賢が討死、義平側が勝利した。一方の中央では、白河院の寵愛を受けた伊勢平氏一族の平正盛が地位を固めていく一方で、武門の中で河内源氏の勢力は義家の死去以降相対的に低下していた。とりわけ為義は他の河内源氏がそれなりの地位を獲得する間、問題行動などが原因で長年官位的に逼塞をしていた。その中において義朝は河内源氏の50年ぶりの受領就任を果たすなどの躍進を遂げた。 為義と義朝の対立は崇徳上皇と後白河天皇との間に起こった保元の乱において決着する。崇徳上皇方となり敗れた父や弟を処刑した義朝は、同じく院側についた義康が急逝したこともあり、河内源氏の中で最大の有力者となった。しかし京都では、信西一門・二条天皇親政派・後白河院政派というグループの鼎立が起こり、藤原信頼と結んでいた義朝は同じく信頼に与力した武士たちと共に後白河上皇を幽閉、平治の乱に加わった。一時信頼グループは政権を掌握するが、平清盛らが秘密裏に上皇らを救出したことで形勢逆転、敗退して信頼は処刑され、義朝は京を落ちて東国へ向かう。しかし、道中で腹心の鎌田政清の舅になる尾張国の長田忠致の手にかかって殺害された。
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保元の乱、平治の乱
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保延4年(1138年)、清盛の長男として誕生。母は右近将監・高階基章の娘。久安6年(1150年)12月、鳥羽法皇の蔵人に補される。翌年正月に従五位下になる。 保元元年(1156年)の保元の乱に父に従って参戦。『兵範記』には中務少輔・重盛の名が記されている。清盛の軍勢は源為朝との戦闘で大きな被害を出し、形勢不利と見た清盛は撤退を指示した。この時に重盛は父の制止を振り切って、為朝と戦うため出陣しようとするなど血気盛んなところを見せた。保元の乱は清盛の属す天皇方の勝利に終わり、保元2年(1157年)正月、重盛はその功績により19歳で従五位上に昇叙した。同年10月22日に大内裏が再建され、清盛は仁寿殿を造営した。父から造営の賞を譲られた重盛は、正五位下となった。保元3年(1158年)8月、清盛は知行国を安芸国から遠江国に移す。自らは大宰大弐であったため、重盛が代わりに遠江守となった。 平治の乱が勃発した平治元年(1159年)12月9日、清盛は熊野参詣のため紀伊国にいた。『平治物語』では重盛は動揺する父を励ましたとするが、『愚管抄』によれば清盛と一緒にいたのは基盛・宗盛と侍15人で、重盛は同道していない。京都に戻った清盛は二条天皇を内裏から六波羅に脱出させ、藤原信頼・源義朝の追討宣旨を受ける。重盛は叔父・頼盛とともに出陣する。この戦いで重盛は「年号は平治、都は平安、我らは平氏、三つ同じ(平)だ、ならば敵を平らげよう」と味方の士気を鼓舞し、源義平と御所の右近の橘・左近の桜の間で激戦を繰り広げ、堀河の合戦では馬を射られながらも材木の上に立ち上がって新たな馬に乗り換えるなど獅子奮迅の活躍をする。もっとも『愚管抄』によれば義朝はすぐに内裏を出撃して六波羅に迫ったとあるので、内裏で戦闘が行われたかどうかは定かでなく、話を盛り上げるための創作の可能性もある。 この合戦で藤原信頼に与していた藤原成親は助命されているが、成親の妹・経子を妻にしていた重盛の嘆願が背景にあったと推測される。乱の終結後に合戦の恩賞の除目があり、重盛は勲功賞として伊予守に任じられる。年が明けてすぐに従四位下となり、左馬頭も兼任する。
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保元の乱、平治の乱
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詳細は「保元の乱」および「平治の乱」を参照 保元元年(1156年)の保元の乱では義母・池禅尼が崇徳上皇の子・重仁親王の乳母であったため清盛の立場は難しいものであったが、一門の結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらし播磨守、大宰大弐となる。 信西と藤原信頼・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、平治元年(1159年)の平治の乱で政権を握った藤原信頼・大炊御門経宗・葉室惟方などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で源義朝・源重成・源季実・源光保といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築く。
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