保元の乱・平治の乱とは? わかりやすく解説

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保元の乱・平治の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:04 UTC 版)

河内源氏」の記事における「保元の乱・平治の乱」の解説

源為義白河院近侍したものの、自身郎党八男鎮西八郎為朝等の狼藉行動で信を失い摂関家接近した一方で長男源義朝南関東下向して勢力伸ばし白河院仕えて父とは別行動をとった。この際当時武蔵守藤原信頼接近したとされる義朝は、荒加賀入道義国とも結ぶことに成功し関東で力をつけ、さらに院の影響下で京都復帰した一方、父の為義義朝の弟の義賢義朝支配及ばない北関東派遣した秩父氏争いかかわって義賢義朝長男の義平(鎌倉悪源太)と対立したが、大蔵合戦義賢討死、義平側が勝利した一方中央では、白河院寵愛受けた伊勢平氏一族平正盛地位固めていく一方で武門の中で河内源氏勢力義家死去以降相対的に低下していた。とりわけ為義は他の河内源氏それなりの地位獲得する間、問題行動などが原因長年官位的に逼塞をしていた。その中において義朝河内源氏50年ぶりの受領就任を果たすなどの躍進遂げた為義義朝対立崇徳上皇後白河天皇との間に起こった保元の乱において決着する崇徳上皇方となり敗れた父や弟を処刑した義朝は、同じく院側についた義康が急逝したこともあり、河内源氏の中で最大有力者となった。しかし京都では、信西一門二条天皇親政派・後白河院政派というグループ鼎立起こり藤原信頼結んでいた義朝同じく信頼与力した武士たちと共に後白河上皇幽閉平治の乱加わった一時信頼グループ政権掌握するが、平清盛らが秘密裏上皇らを救出したことで形勢逆転敗退して信頼処刑され義朝は京を落ちて東国へ向かう。しかし、道中腹心鎌田政清の舅になる尾張国長田忠致の手かかって殺害された。

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保元の乱、平治の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:24 UTC 版)

平重盛」の記事における「保元の乱、平治の乱」の解説

保延4年1138年)、清盛長男として誕生。母は右近将監高階基章娘。久安6年1150年12月鳥羽法皇蔵人補される翌年正月従五位下になる。 保元元年1156年)の保元の乱に父に従って参戦。『兵範記』には中務少輔重盛の名が記されている。清盛軍勢源為朝との戦闘大きな被害出し形勢不利と見た清盛撤退指示した。この時に重盛は父の制止振り切って為朝と戦うため出陣しようとするなど血気盛んところを見せた保元の乱清盛属す天皇方勝利終わり保元2年1157年正月重盛はその功績により19歳従五位上昇叙した。同年10月22日大内裏再建され清盛仁寿殿造営した。父から造営の賞を譲られ重盛は、正五位下となった保元3年1158年8月清盛知行国安芸国から遠江国に移す。自らは大宰大弐であったため、重盛代わりに遠江守となった平治の乱勃発した平治元年1159年12月9日清盛熊野参詣のため紀伊国にいた。『平治物語』では重盛動揺する父を励ましたとするが、『愚管抄』によれば清盛一緒にいたのは基盛・宗盛と侍15人で、重盛同道していない。京都戻った清盛二条天皇内裏から六波羅脱出させ、藤原信頼源義朝追討宣旨を受ける。重盛叔父・頼盛とともに出陣する。この戦いで重盛は「年号平治、都は平安我ら平氏三つ同じ(平)だ、ならば敵を平らげよう」と味方士気鼓舞し源義平御所右近の橘左近の桜の間で激戦繰り広げ堀河合戦では馬を射られながらも材木の上立ち上がって新たな馬に乗り換えるなど獅子奮迅の活躍をする。もっとも『愚管抄』によれば義朝はすぐに内裏出撃して六波羅迫ったとあるので、内裏戦闘が行われたかどうかは定かでなく、話を盛り上げるための創作可能性もある。 この合戦藤原信頼与していた藤原成親助命されているが、成親の妹・経子を妻にしていた重盛嘆願背景にあった推測される乱の終結後に合戦恩賞除目があり、重盛勲功賞として伊予守任じられる。年が明けてすぐに従四位下となり、左馬頭兼任する

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保元の乱、平治の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:11 UTC 版)

平清盛」の記事における「保元の乱、平治の乱」の解説

詳細は「保元の乱」および「平治の乱」を参照 保元元年1156年)の保元の乱では義母池禅尼崇徳上皇の子重仁親王乳母であったため清盛立場難しいものであったが、一門結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらし播磨守大宰大弐となる。 信西藤原信頼二条親政派の対立では中立的立場とっていたが、平治元年1159年)の平治の乱政権握った藤原信頼大炊御門経宗葉室惟方などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位高めることになる。この過程源義朝源重成源季実源光保といった有力武士が滅亡したため、清盛武士の第一人者として朝廷軍事力警察力掌握し武家政権樹立の礎を築く。

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