保元元年の例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 09:46 UTC 版)
臨時朔旦冬至を避けるための改暦が初めて行われた保元元年(1156年)の改暦は、『兵範記』・『管見記』・『押小路文書』などにその遣り取りを巡る記事が多く残されている。前年の久寿2年(1155年)の御暦奏において、暦博士賀茂在憲が11月1日を冬至とする暦を奏進した。ところがそれを知った算博士・三善行康が章の最初でもないのに朔旦冬至となるのは不吉と論じた。議論は年が明けても続き、紀伝道・明経道からも意見を求めた。ところが、この年に鳥羽法皇が崩御し、続いて保元の乱が発生したことから議論は複雑化・長期化し、10月18日(12月2日)の陣定でも暦道側を支持する藤原伊通・藤原公教と算道側を支持する藤原忠雅が激しく議論した。また、藤原公能のように後白河天皇の勅裁を仰ぐべきとする意見も出された。そのため、24日(8日)に関白・藤原忠通らを加えた殿上定が行われてその結果、算道側の主張が通り、2日後に後白河天皇の改暦宣旨が出されて、急遽29日(13日)を30日として、本来の11月1日(14日)(冬至)を11月2日としてその年の11月と12月は29日までとしたのである。なお、行康の子で同じく算博士であった三善行衡が長寛元年(1163年)に翌2年に朔旦冬至を設定するために改暦すべきと賀茂在憲と論争を行って勝利している。算道は暦道と同じ『周髀算経』を教科書とするなど、古くから暦学とつながりが深く、暦道側と改暦の是非を巡ってたびたび議論したという。
※この「保元元年の例」の解説は、「改暦」の解説の一部です。
「保元元年の例」を含む「改暦」の記事については、「改暦」の概要を参照ください。
- 保元元年の例のページへのリンク