保元の乱における源義朝への恩賞と平治の乱の関係を巡る説とは? わかりやすく解説

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保元の乱における源義朝への恩賞と平治の乱の関係を巡る説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:39 UTC 版)

平治の乱」の記事における「保元の乱における源義朝への恩賞と平治の乱の関係を巡る説」の解説

一方、その元木平治の乱原因とされてきた「保元の乱における論功行賞」の問題について、清盛受領としては最上位将来公卿への昇進約束されるに対して義朝右馬権頭(後に左馬頭)に任じられ昇殿許され、更に下野守重任従五位上への昇進認められに過ぎない義朝一族犠牲しながら奮闘した結果考えると冷遇されてきたと考え古くからの見方に対して恩賞多寡考えた場合正四位下刑部卿平忠盛の子自身保元の乱段階正四位下安芸守であった清盛従五位下下野守であった義朝の間に格差がつくのは当然で、しかも父親や弟が謀叛人として処刑され義朝院近臣重職である左馬頭任じられなおかつ河内源氏曽祖父源義家以来昇殿許されたことは「破格恩賞であって義朝恩賞に不満を持っていたとは考えられないとする説を提示している。これについては本郷和人高橋昌明もこれを支持する見方示している。 これに対して古澤直人左馬頭源経基源満仲父子任じられ以来 清和源氏とゆかりが深い官職で、義朝右馬助下野守)から右馬権頭、更に左馬頭昇進したのは一定の配慮結果であることは認めている(古澤左馬頭院近臣としての要素よりも清和源氏官職としての要素重視する)。しかし、武家社会における恩賞多寡基準現任官位との比較以上に承平天慶の乱平将門の乱鎮圧六位から四位越階なおかつ下野掾から下野守昇進した藤原秀郷前九年の役鎮圧自身正四位下伊予守に任ぜられただけでなく息子郎党任官与った源頼義といった「先例」との比較であり、後に義朝の子である頼朝源義仲追討戦功従五位下から正四位下越階した際に秀郷の先例持ち出されている(『吾妻鑑寿永3年4月10日条)ことからも朝廷でも謀叛鎮圧対す恩賞先例として意識されていたとしている。しかし、保元の乱における義朝への恩賞検討してみると、秀郷や頼義と同じ「謀叛鎮圧」という実績挙げたにも関わらず従五位上昇進は乱の翌年まで持ち越しとされてかつ四位への越階はなかった、義朝と共に戦った子息(義平)や郎党に対して任官などの恩賞はなかった、など武家先例比較すれば明らかに少な恩賞であったとしている。そして、亡弊国疲弊していて様々な負担免除されていた国)である下野の国守に留まったことで内裏再建成功における一部免除を受け(反対に成功による昇進期待できない)、信西の子との婚姻断られるなど、保元の乱における(武家先例比較した義朝への恩賞低さが、義朝清盛格差を更に拡大させたことで義朝が不満を深めたのが平治の乱一因考えるのが妥当であり、元木説は恩賞与える側と与えられる側の意識のずれを考慮していないと批判している。

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