保元の乱における源義朝への恩賞と平治の乱の関係を巡る説
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「平治の乱」の記事における「保元の乱における源義朝への恩賞と平治の乱の関係を巡る説」の解説
一方、その元木は平治の乱の原因とされてきた「保元の乱における論功行賞」の問題について、清盛が受領としては最上位で将来は公卿への昇進が約束されるのに対して、義朝は右馬権頭(後に左馬頭)に任じられて昇殿を許され、更に下野守重任、従五位上への昇進が認められたに過ぎない義朝が一族を犠牲しながらも奮闘した結果を考えると冷遇されてきたと考える古くからの見方に対して、恩賞の多寡を考えた場合正四位下刑部卿平忠盛の子で自身も保元の乱の段階で正四位下安芸守であった清盛と従五位下下野守であった義朝の間に格差がつくのは当然で、しかも父親や弟が謀叛人として処刑された義朝が院近臣の重職である左馬頭に任じられてなおかつ河内源氏で曽祖父源義家以来昇殿を許されたことは「破格の恩賞」であって、義朝が恩賞に不満を持っていたとは考えられないとする説を提示している。これについては本郷和人や高橋昌明もこれを支持する見方を示している。 これに対して、古澤直人は左馬頭が源経基・源満仲父子が任じられて以来 清和源氏とゆかりが深い官職で、義朝が右馬助(下野守)から右馬権頭、更に左馬頭に昇進したのは一定の配慮の結果であることは認めている(古澤は左馬頭は院近臣としての要素よりも清和源氏の官職としての要素を重視する)。しかし、武家社会における恩賞の多寡の基準は現任の官位との比較以上に、承平天慶の乱と平将門の乱の鎮圧で六位から四位に越階しなおかつ下野掾から下野守に昇進した藤原秀郷や前九年の役の鎮圧で自身が正四位下伊予守に任ぜられただけでなく息子や郎党も任官に与った源頼義といった「先例」との比較であり、後に義朝の子である頼朝が源義仲追討の戦功で従五位下から正四位下に越階した際に秀郷の先例が持ち出されている(『吾妻鑑』寿永3年4月10日条)ことからも朝廷でも謀叛の鎮圧に対する恩賞の先例として意識されていたとしている。しかし、保元の乱における義朝への恩賞を検討してみると、秀郷や頼義と同じ「謀叛の鎮圧」という実績を挙げたにも関わらず、従五位上の昇進は乱の翌年まで持ち越しとされてかつ四位への越階はなかった、義朝と共に戦った子息(義平)や郎党に対しては任官などの恩賞はなかった、など武家の先例と比較すれば明らかに少ない恩賞であったとしている。そして、亡弊国(疲弊していて様々な負担が免除されていた国)である下野の国守に留まったことで内裏再建の成功における一部免除を受け(反対に成功による昇進が期待できない)、信西の子との婚姻を断られるなど、保元の乱における(武家の先例と比較した)義朝への恩賞の低さが、義朝と清盛の格差を更に拡大させたことで義朝が不満を深めたのが平治の乱の一因と考えるのが妥当であり、元木説は恩賞を与える側と与えられる側の意識のずれを考慮していないと批判している。
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