北方への拡大と俘囚の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:13 UTC 版)
以後陸奥国と並ぶ辺境の国となり、天平5年(733年)頃には雄勝郡を設置し、また同年12月26日に出羽柵が秋田村高清水岡(秋田市)に移された。その後雄勝郡は一旦放棄されたと見られているが、天平宝字3年(759年)には雄勝城の設置に合わせ、改めて雄勝郡・平鹿郡が置かれた。天平宝字4年(760年)頃、出羽柵は秋田城へと改変された。以後も俘囚の反乱が相次いだため、宝亀11年(780年)に秋田城の放棄が検討されたが、次官国司である出羽介が秋田城介として常置されることとなった。この頃、国府機能が城輪柵(きのわき:山形県酒田市)に移された(#国府)。陸奥国府には鎮守府が置かれ、平安時代後期以降に秋田城介が空位になると、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。
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