ダマスカスの掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 03:38 UTC 版)
「ムイーヌッディーン・ウヌル」の記事における「ダマスカスの掌握」の解説
1139年、今度はズムッルドに擁立されていたマフムードがマムルークに殺された。マフムードの跡を継いだムハンマドに政務を一任され、ウヌルは防備を固める。マフムードの死を好機と見たザンギーは、ジャズィーラにいたが報せを受けるなり再びダマスカスに進軍した。ウヌルはザンギーから巨大な見返りと引き換えにダマスカスの引き渡しを求められるがこれを拒否する。ザンギーはまずダマスカス領のバールベクを攻撃し奪取したが、その際の残虐な振る舞いによりダマスカスは反発を強め、より固く団結した。1139年から40年にかけてザンギーはダマスカスを攻撃し、この間ブーリー朝君主のムハンマドが病没し、息子アバクに代替わりする。この状況下でウヌルはよく耐え、予て締結していたイェルサレム王国との同盟に基き、救援を要請してザンギーを再び退却に追い込んだ。
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