シャブタイ・ツヴィの神性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 00:49 UTC 版)
「シャブタイ派」の記事における「シャブタイ・ツヴィの神性」の解説
シャブタイ派思想の根底には、神という観念に対するツヴィ自身による解釈が据えられている。ツヴィはカバラを学びはじめた当初から、カバラにおける神の概念エン・ソフと、同じくカバラの中心概念で世界創生のプロセスを明示するセフィロトとの関係に違和感を覚えていた。多くのカバリストに支持されていたルリアのカバラをツヴィが受け入れなかったのは、エン・ソフの働きを顕在化できるのはセフィロトだけであると述べられていたからである。一方のツヴィは『ゾハル』のテキストを文字通りに解釈していた。 ツヴィはイズミールで学んでいた青年時代のころにはすでに神の概念のおおよそのディテールを完成させていた。彼の発想で独創的だったのは、永遠の存在で万物の根源たるエン・ソフと被造物たる世界を完全に切り離して考えるということであった。エン・ソフはこの世に何の影響も与えておらず、また審判者のごとくこの世を監視しているわけでもない。一方、セフィロトの六番目のセフィラーであるティフエレト(セフィロトの中心)こそ、他ならぬ天地創造の神、すなわちユダヤ人に崇拝することが要求されているイスラエルの神であるとした。神性に対する彼の斬新な視点は、エピクロスの哲学における方法論にも通ずるイマジネーションに溢れたものだったのだが、一般には受け入れられないことを彼自身がよく理解していた。それゆえ、当時は弟子のなかでも特に親しかった者にしか自らの教義を教えなかった。ツヴィの思想は、後にシャブタイ派の指導者のひとりとなるアブラハム・ミグエル・カルドソ(1630年〜1706年)がツヴィの名を借りて執筆した『ラザ・デ=メヘマヌータ』のなかで詳らかにされている。 とはいえ、シャブタイ派の内部では神の観念についての統一的な見解が絞りきれていなかった。ナタンはシャブタイ・ツヴィと神との間には完全な合一が見られるとし、ツヴィの書記だったサムエル・プリモもツヴィの神性を認めていた。一方、カルドソをはじめとしたシャブタイ派のカバリストの多くはプリモの見解に否定的で、ツヴィを神格化することは背信行為に他ならないとしてプリモと彼の仲間に対して容赦ない論争を仕掛けた。それをきっかけに、ツヴィ、ナタン、プリモの陣営とカルドソの陣営との間に、全世界の創造主でありながら世界から切り離された存在としてのエン・ソフと、セフィロトのティフエレトに位置するイスラエルの神との関係についての議論が起こった。ツヴィは、世界が修復されるときにこそエン・ソフとイスラエルの神の一体化が図られると予見したのだが、カルドソは、両者の乖離は永久に不変であるとした。
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