バーゼル大学教授時代とは? わかりやすく解説

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バーゼル大学教授時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:10 UTC 版)

フリードリヒ・ニーチェ」の記事における「バーゼル大学教授時代」の解説

1869年ニーチェ24歳で、博士号教員資格取得していなかったが、リッチュルの「長い教授生活の中で彼ほど優秀な人材見たとがない」という強い推挙もあり、バーゼル大学から古典文献学教授として招聘された。バーゼル赴任するにあたりニーチェスイス国籍の取得考えプロイセン国籍を放棄する実際にスイス国籍取得してはいない。これ以後ニーチェ終生無国籍者として生きることとなる)。 本人哲学担当希望した受け入れられず、古代ギリシアに関する古典文献学専門とすることとなる。講義就任講演ホメロス古典文献学」に始まるが、自分にも学生にも厳し講義のスタイル当時話題となった研究者としては、古代の詩における基本単位音節長さだけであり、近代のようなアクセントに基づく基本単位とは異なということ発見した終生友人となる神学教授フランツ・オーヴァーベック(Franz Overbeck)と出会ったほか、古代ギリシアルネサンス時代文化史講じていたヤーコプ・ブルクハルトとの親交始まり、その講義出席するなどして深い影響受けたのもバーゼル大学でのことである。 1872年ニーチェ第一作音楽精神からのギリシア悲劇誕生』(再版以降『悲劇の誕生』改題)を出版した。 しかしリッチュル同僚はじめとする文献学者中には厳密な古典文献学手法用いず哲学的な推論頼ったこの本への賛意を表すものは一人とてなかった。特にウルリヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフは『未来文献学』と題したヴァーグナー自分音楽を「未来の音楽」と称していたことにあてつけた題である)強烈な批判論文発表し、まったくの主観性彩られ『悲劇の誕生』文献学という学問対す裏切りであるとしてこの本を全否定した。好意をもってこの本を受け取ったのは、献辞捧げられヴァーグナーの他にはボン大学以来友人ローデ当時キール大学教授)のみである。こうした悪評響いたため同年冬学期ニーチェ講義からは古典文献学専攻学生がすべて姿を消し聴講者わずかに2名(いずれも学部となってしまう。大学学科内で完全に孤立したニーチェ哲学科への異動希望する認められなかった。

※この「バーゼル大学教授時代」の解説は、「フリードリヒ・ニーチェ」の解説の一部です。
「バーゼル大学教授時代」を含む「フリードリヒ・ニーチェ」の記事については、「フリードリヒ・ニーチェ」の概要を参照ください。

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