バーゼル公会議とフィレンツェ公会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/25 08:47 UTC 版)
「大ジュリアーノ・チェザリーニ」の記事における「バーゼル公会議とフィレンツェ公会議」の解説
バーゼル公会議の首席者となったチェザリーニは、1531年冬のエウゲニウス4世の公会議を解散させようとする命令に一旦は抵抗し、これを取り下げさせることに成功した。しかし公会議派の教皇に対する攻撃や圧力が過激化するにつれて、チェザリーニは公会議参加者の大多数が彼らに賛同していないと判断して公会議派に見切りをつけて、1437年の公会議分裂の際にはフェラーラに移った教皇派を支持した。フェラーラでは、チェザリーニは東方正教会との統合に関する折衝のリーダーとなった。当時はビザンツ帝国がオスマン帝国の圧力の前で滅亡の危機に瀕しており、カトリック教会との統合を実現することで対オスマン援助をとりつけようと、皇帝ヨハネス8世パレオロゴス自ら公会議に乗り込んできていた。疫病のため1439年にフェラーラ公会議がフィレンツェに移転したのちも、チェザリーニはギリシアとの交渉を担い続けた。1539年にチェザリーニらは合同教令「レテントゥル・チェリ」 (Laetentur Coeli) の採択で一旦合意したが、ビザンツ帝国内での激しい抵抗により間もなく崩壊した。
※この「バーゼル公会議とフィレンツェ公会議」の解説は、「大ジュリアーノ・チェザリーニ」の解説の一部です。
「バーゼル公会議とフィレンツェ公会議」を含む「大ジュリアーノ・チェザリーニ」の記事については、「大ジュリアーノ・チェザリーニ」の概要を参照ください。
- バーゼル公会議とフィレンツェ公会議のページへのリンク