バーゼルからの移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 02:55 UTC 版)
「フィレンツェ公会議」の記事における「バーゼルからの移転」の解説
1431年にスイスのバーゼルで公会議が始まった。その経過についてはバーゼル公会議参照のこと。 オスマン帝国の圧力を受けて、西ヨーロッパ諸国からの支援を求めていたビザンツ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスは東西融和の一環として東西教会の分裂の収拾を提案した。西方教会でもこれを歓迎する機運が高まっていたが、この話し合いを行うための場所をめぐって、バーゼルの公会議参加者と教皇側の間の議論は紛糾した。 1437年9月18日、教皇側がギリシア側の便宜を図ってフェラーラへの公会議の移転を発表するとバーゼルの公会議参加者たちは分裂、ニコラウス・クザーヌスなど教皇に従ってフェラーラに移動するものとバーゼルに残留するものとに分かれた。フリードリヒ3世は教皇エウゲニウス4世と交渉して、バーゼルの代表者にバーゼル公会議を途中から欠席させた。 バーゼルに残った急進的な公会議主義者たちは教皇権を超える公会議の権威を主張して、これに反対した教皇の廃位を一方的に宣言。1439年6月25日、独自にサヴォイア公爵アマデウスを教皇に立てた。これがフェリクス5世、最後の対立教皇である(この行為は公会議主義の歴史における大失点となった)。
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