バーゼルのドレフュス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 08:33 UTC 版)
「コメルツ銀行」の記事における「バーゼルのドレフュス」の解説
1889年、コメルツ銀行は独亜銀行の創設に加われなかった(Deutsch-Asiatische Bank, 香港上海銀行と下関条約賠償金を融資)。コメルツ銀行は東アジア貿易よりも、ロシア・オーストリア商圏や大西洋貿易をとったのである。1892年、ベルリン支店を開いた。1897年フランクフルト支店とも協力し、バーゼル資本のドレフュス商会(Dreyfus Söhne & Cie.)フランクフルト支店(J. Dreyfus & Co.)を買収した。1905年、ベルリナー銀行(Berliner Bank)を併合してベルリンに本店を移した。もっとも登記上は第二次世界大戦までハンブルクということになっていた。1908-9年ごろ、コメルツの主力はドレフュスを統合したコメルツ割引銀行であり(Commerzbank- und Disconto-Bank)、これがやはりハンブルクにあったのである。これは内紛であった。20世紀を通じてアメリカ経済に影響力をもち、メロン財閥へ接近してゆくドレフュスである。コメルツにおける発言力も相当なもので、フランクフルト支店を清算して自分の会社へと再生してしまったのである。コメルツとは1904年に正式な合意を交わして、資産は1909年にかけて移管された。このドレフュスを代表的なチャンネルとしてアメリカ資本がドイツ帝国へ投下されてゆき、保険とライフラインの複合したコンツェルンを誕生させた。
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