アルマニャック派との和解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 03:24 UTC 版)
「ブルゴーニュ公国」の記事における「アルマニャック派との和解」の解説
1428年10月、イングランド及びブルゴーニュ軍は、アルマニャック派の拠点であるオルレアンを包囲した(オルレアン包囲戦)。ところが、ジャンヌ・ダルクがシャルル王太子に加勢して撤退を余儀なくされる。王太子はパテーの戦いでも勝利し、7月に念願の戴冠式を執り行うことができた。1430年5月のコンピエーニュ包囲戦でブルゴーニュ軍のリニー伯ジャン2世がジャンヌを捕らえ、同盟関係からイングランドに引き渡す。ジャンヌは翌1431年5月に火刑に処された。 同年12月、リールでフィリップ善良公とフランス王家は休戦に合意し、1435年9月21日にアラスの和約が締結された。無怖公暗殺に対する謝罪をはじめ、ブルゴーニュ側に譲歩した内容であった。アングロ・ブルギニョン同盟に替わり「フランコ・ブルギニョン同盟」(フランス・ブルゴーニュ同盟)が結ばれ、実際の支援以上に国民感情に対する影響が大であった。
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