アルマニャック派へ接近、和睦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/29 13:42 UTC 版)
「ブルゴーニュ派」の記事における「アルマニャック派へ接近、和睦」の解説
1428年7月、デルフトの和約(英語版)により、ネーデルラントの相続問題が終息し、善良公の相続が認められた。これを機にベッドフォード公は彼をフランス戦線へ引きずり出すためオルレアン包囲戦を敢行したが、翌1429年5月にジャンヌ・ダルクが包囲網を破り失敗、6月のパテーの戦いでも連敗してイングランドの権勢が揺らぐ結果に終わった。 それでも善良公はベッドフォード公の求めに応じ、1430年のコンピエーニュ包囲戦にリニー伯ジャン2世率いる援軍を派遣、この戦いで捕らえたジャンヌの引き渡し交渉をコーションが受け持ったが、この時点でも善良公はフランスとのあからさまな対立を避けるばかりか、1429年7月、8月に相次いで休戦協定を結び、将来の和睦に向けた予備交渉まで定めていった。 1432年にベッドフォード公に嫁いだアンヌが死去してイングランドとの姻戚関係が途切れ、翌1433年に一時宮廷から遠ざけられていたリッシュモンが権力を掌握するとブルゴーニュ派との和睦交渉が行われ、1434年12月から1435年2月にかけてヌヴェールで条件を具体化させた。7月に善良公の提案でイングランドも含めた三者交渉が始まったが、イングランドが途中で離脱したためフランスとブルゴーニュがヌヴェールで決めた条件を細かく定め、9月21日にアラスの和約が締結された。 以後ブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争は無くなり、一時イングランドとブルゴーニュの対立はあったが、1439年9月に休戦協定を結び、フランスからネーデルラント方面へ目を移した善良公はルクセンブルクを交渉と軍事介入で手に入れ、ブルゴーニュ公国の最盛期を迎えていった。
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