ネーデルラント方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:50 UTC 版)
「スペイン継承戦争」の記事における「ネーデルラント方面」の解説
フランス軍は、ルイ14世がマクシミリアン2世と弟のケルン選帝侯兼リエージュ司教ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンと結んでいたため、簡単にオランダ侵攻が出来る最前線にまで駐屯が可能となり、ルイ・フランソワ・ド・ブーフレールが率いるフランス軍はケルン選帝侯領でオランダを伺っていた。しかし、マールバラ公はフランス軍を上回る機動力でフランス軍の補給地点を脅かしたり、マース川流域とケルン選帝侯領を占領したため、フランス軍はネーデルラントへ撤退、居場所を無くしたヨーゼフ・クレメンスはフランスへ亡命した。1703年にヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィルがフランス軍の指揮権を引き継いだが、マールバラ公に牽制され、アントウェルペンからナミュールまでの防衛線確保に手一杯だった。 1704年には、ドイツでフランス・バイエルン連合軍がオーストリアに接近したとの報告を受けたマールバラ公がドイツ遠征を決意したが、前線のフランス軍を残したまま南下することを恐れたオランダに反対されることが分かっていたため、フランス軍とオランダを騙して南下するという賭けに出た。オランダにはアウウェルケルク卿ヘンドリック・ファン・ナッサウを残してバイエルンへ向かい、同じく南下したヴィルロワに対しては途中のライン川を渡河して交戦すると見せかけて牽制、400kmも進みドイツ南部でイタリアから赴任したオイゲンとバーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと合流した。そしてドナウ川流域を占領しつつバイエルンを荒らし回り、ブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍に大勝し、ドナウ川の脅威を取り除いてイギリスへ帰国した。この戦いの恩賞としてマールバラ公はアンからブレナム宮殿を与えられている。 マールバラ公は1705年にも南下を目論んだが、ドイツからクロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラールが妨害したためネーデルラントへ引き上げ、ネーデルラントでも戦果を上げられなかった。しかし翌1706年にヴィルロワがルイ14世の命令で東進した所を迎え討ち、ラミイの戦いで大勝、余勢を駆ってネーデルラントを占領した。1707年にフランスのイタリア方面司令官だったヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンがヴィルロワの代わりにネーデルラントへ向かうと戦線は停滞、1708年にルイ14世の孫でフェリペ5世の兄でもあるブルゴーニュ公ルイの指揮下に入ったヴァンドームにネーデルラント西部を占領されるが、イタリアから北上したオイゲンと合流してアウデナールデの戦いで勝利、西部を奪還して北フランスの要塞都市リールも落としてフランスに脅威を与えた(リール包囲戦)。 1709年に和睦交渉が決裂したため、マールバラ公・オイゲンは北フランスへ進撃、ブルゴーニュ公・ヴァンドームから交代したヴィラール率いるフランス軍が構築した防衛線を崩す戦略を取り、ヴィラールは防衛線堅持の方向で迎え討った。両者はマルプラケの戦いで激突、連合軍は勝利したがフランス軍の倍の大損害を受けたため、トゥルネーとモンスの陥落だけに終わった。また、長期化に伴いイギリスの厭戦気分が高まり、1710年にゴドルフィンが更迭、総選挙でホイッグ党に代わって政権を握ったハーレーとシンジョンらトーリー党政権は、和睦とマールバラ公の罷免に動き出した。 マールバラ公ら同盟軍は1710年から1711年にかけてフランス防衛線を徐々に崩していったが、1711年にマールバラ公はトーリー党に罷免され、後任のオーモンド公ジェームズ・バトラーはフランス外相のトルシー侯と和睦交渉していたハーレーらの命令でフランス軍と戦わず、翌1712年にシンジョンとトルシーが単独講和を結んだため、イギリス軍を引き連れて帰国した。イギリス軍の離脱で同盟軍の戦力は低下、オイゲンとアルベマール伯アーノルド・ヴァン・ケッペルは同盟軍を率いて戦争を続けたが、ドゥナの戦いで敗北してアルベマールは捕らえられ、ヴィラールが戦線を持ち直したため交戦を断念、ユトレヒト条約とラシュタット条約の締結で終戦となった。
※この「ネーデルラント方面」の解説は、「スペイン継承戦争」の解説の一部です。
「ネーデルラント方面」を含む「スペイン継承戦争」の記事については、「スペイン継承戦争」の概要を参照ください。
- ネーデルラント方面のページへのリンク