ハノーファー協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:12 UTC 版)
「第二次シュレージエン戦争」の記事における「ハノーファー協定」の解説
大王にとって、1745年以降この戦争の目的はシュレージエン領有の保障された和平を獲得することにあった。ゆえに以後のプロイセン軍の行動は全て和平交渉へ良い影響を与えようという目的に沿って行われた。会戦に勝利した後、大王は再びデュ・ムーランやヴィンターフェルトの部隊を送って国境の山地を回復させたが、主力でもって敗走した連合軍を追撃し撃滅しようとはしなかった。これはのちの軍事史家からはしばしば批判されたことであるが、大王が追撃を見送ったその理由は、一つにはこの時代の戦争それ自体がナポレオン戦争の頃とは異なり、追撃を重視しなかった(できなかった)ことにあり、いま一つはプロイセン軍の兵站整備が未だ前年の損害を回復しておらず、準備なくベーメンに踏み込めば前年の二の舞になりかねなかったからである。 補給態勢を整えたプロイセン軍は、6月中旬から山を越えてベーメン北東部エルベ上流域へ進出し、ケーニヒグレーツで連合軍と対峙した。会戦敗北後ケーニヒグレーツまで撤退し、そこに留まっていたカール公子は、自軍をケーニヒグレーツの南、エルベ川東岸のエルベとオドラに挟まれた要害の地に置いて防御を固めていた。対する大王も6月18日、オドラ北岸、ケーニヒグレーツ北東に陣を構えた。両軍の陣地はすぐに会戦に転じることのできるほど接近していたが、カール公子に会戦に訴えるような戦意はなく、大王の意図もあくまでオーストリア軍にプレッシャーをかけることにあった。このため戦闘は起こらなかった。 大王はホーエンフリートベルクの戦いの後、さっそくイギリスに和平交渉を始めるよう働きかけていた。ホーエンフリートベルクより先の5月11日にはフォントノワの戦いにおいてイギリス、オーストリア、オランダ連合軍がフランス軍に敗北しており、イタリア方面においてもフランス・スペイン連合が優勢で、1745年夏の戦況は春とは大きく変わって反オーストリア側に分があった。ケーニヒグレーツで睨みあいを続けてイギリスとの交渉進展を待つその間に、大王はナッサウを上シュレージエンに増派してエステルハージ軍を押し戻すよう命じ、一方でマクデブルクの老デッサウ軍にはザクセン国境で示威行動を行わせ、ザクセンを戦争から離脱させようと図った。 ケーニヒグレーツで対陣して1カ月も経つと、プロイセン軍は土地周辺の物資を消費しつくしてしまい、新しい別の土地に移らなければならなかった。7月20日、プロイセン軍はエルベ左岸に渡河してクルムを中心にピストリッツからエルベまでの領域を占領し、なお交渉の進展を待った。この間ザクセン軍は本国の状況に危機を感じ、部隊の多くを帰還させたが、オーストリア軍にはなおしばらく動きはなかった。 この頃フランスは、プロイセンの要求に応えることなくドイツの戦局について関心を示すことがなかった。神聖ローマ皇帝の選出会議を開くフランクフルトは当時フランスのコンティ軍が押さえていたが、このフランクフルト確保のためにオーストリアのトラウン軍が前進してくると、コンティ軍は戦闘を回避してライン左岸に撤退してしまった。当時両国の間ではもうほとんど連携は行われなかった。 一方イギリスは、ネーデルラント方面での戦況劣勢に加えて、フランスがチャールズ若僭王の上陸支援を画策中との報告も寄せられていたことから、プロイセンとオーストリアの講和を斡旋することに再び前向きになっていた。8月26日、ハノーファーでの最終交渉の結果、和平は1742年のブレスラウ条約を元にすること、和平成立の際にはプロイセンはフランツ・シュテファンの皇帝即位を認めることを条件に、イギリスはオーストリアとの講和斡旋を行うという内容のハノーファー協定を結んだ。
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