ハノーファー占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/15 09:05 UTC 版)
「ハノーファー侵攻 (1757年)」の記事における「ハノーファー占領」の解説
カンバーランド公の軍勢は北への撤退を続けた。フランス軍の追撃は補給の問題で遅くなったが、監視軍への追撃は続けられた。イギリスはロシュフォール襲撃を計画してフランスにドイツの軍勢を引き上げさせて海岸防衛にあたらせようとした。しかし、リシュリューは追撃を継続、ミンデンを占領した後、8月11日にハノーファーを占領した。 リシュリューは軍を派遣してブラウンシュヴァイクを占領した。プロイセン王フリードリヒ2世はカンバーランド公の軍に派遣したプロイセン軍を呼び戻して自軍と合流させ、監視軍がさらに弱体化した。 ハノーファー政府はカンバーランド公とともにフェルデン経由でブレーメン=フェルデン(英語版)首都シュターデに撤退した。シュターデはエルベ川で北海につながっており、よく要塞化され海からの補給も可能であったが、カンバーランド公は危険を感じた。シュターデに大規模な増援を送る提案は拒否され、ロシュフォール襲撃は予定通りに行われたがカンバーランド公への支援にしては遅すぎた。ハイド・パーカー大佐はイギリス艦隊でエルベ川を通ってカンバーランド公に届けるまでの補給路を川が凍るまで確保するよう命じられた。この艦隊が配備されたことで、カンバーランド公を兵糧攻めにすることができなくなったため、リシュリュー公はカンバーランド公の陣地が強固であると考えた。フランス軍の士気はすでに大きく低下しており、多くの兵士が病気で動けなかった。カンバーランド公が8月21日に停戦を申し入れたときは拒否したが、リシュリューは今や交渉に前向きになった。
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