ネーデルラントへ転戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 09:49 UTC 版)
「クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール」の記事における「ネーデルラントへ転戦」の解説
1709年、同盟から提案された和睦を拒絶したルイ14世は、危機的状況でヴィラールをネーデルラント方面司令官に登用した。ヴィラールも全力を尽くして兵をかき集め、フランス防衛線を構築して同盟軍を待ち構えた。対する同盟軍は防衛線の突破を狙いモンスを包囲、ヴィラールは直ちにモンスへ急行、ブーフレールと合流し、南方のマルプラケにある森を堅固な要塞に作り変えて同盟軍を迎え撃った(マルプラケの戦い)。ヴィラールは戦闘中に左足を負傷して後方へ運ばれたためブーフレールに交代、フランス軍は敗北しモンスも陥落したが、熾烈な抵抗の甲斐があって勝利した同盟軍にフランス軍の倍の被害を与え、同盟が突きつけた強硬な和睦路線の拒絶へと大きく前進させた。また、この戦いでの大きな損害でイギリスに政争が吹き荒れ、同盟も次第に態度を軟化していった。 1710年にベリック公と共に防衛線の守備に徹しながらもマールバラ公の攻撃を防げず、防衛線を突破されたり都市を陥落させられたりと劣勢を強いられた。だが、1711年にイギリスで政変が起こり、戦争推進派のホイッグ党が総選挙に敗れて和平派のトーリー党が台頭するとマールバラ公の立場が危うくなり、12月にマールバラ公は司令官を罷免され、後任のオーモンド公はトーリー党の意向を受けて積極的に戦闘に出ることは禁じられ、逆に和平のためヴィラールと内通していた。 1712年になるとイギリスがフランスと休戦に合意し、オーモンドがイギリス軍を引き上げさせたため同盟軍は劣勢となり、ヴィラールはドゥナを落として補給路も断ち同盟軍を後退させた(ドゥナの戦い)。この勝利で勢いを得たヴィラールは奪われたフランス都市を次々と奪還、オーストリア・オランダへの講和に持ち込んだ。1713年から1714年にかけてオイゲンと和睦交渉を行い、折衝の末に1714年3月6日にラシュタット条約を締結させた。
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