百年戦争における活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 02:39 UTC 版)
1399年にジャン4世が死去して息子のジャン5世がブルターニュ公位に就いた。同時期にイングランドではランカスター朝が成立し、イングランド王ヘンリー5世はノルマンディーに侵攻する。1415年のアジャンクールの戦いでヘンリー5世はフランス軍を撃破し、多数の貴族を捕虜としたが、その中にはジャン5世の弟であるアルテュール・ド・リッシュモン(後のアルテュール3世)がいた。リッシュモンの能力を恐れるヘンリー5世は監禁して己に従うよう強要、ヘンリー5世の父ヘンリー4世の後妻となっていた母ジャンヌ・ド・ナヴァールが当時イングランドで監禁されていたため、リッシュモンは従わざるを得なかった。 1422年にヘンリー5世、シャルル6世が相次いで死ぬと、フランスにはそれぞれの息子ヘンリー6世とシャルル7世の2人の王が並び立った。ジャン5世はシャルル7世に忠誠を誓ったが、その際に直立かつ帯剣のまま従属の誓いを行っている。ヘンリー6世の叔父で既にブルゴーニュ公国との提携を済ませていた摂政のベッドフォード公ジョンはブルターニュ公国も引き入れようと画策、ジャン5世も一度はイングランド側になびくが、後に再びシャルル7世側に就く。リッシュモンもシャルル7世側に加わり、イングランド側に戻ることは2度となかった。 1424年のシャンベリーの協定でシャルル7世、ブルターニュ公国、ブルゴーニュ公国の間で相互不可侵が確約され、リッシュモンはフランス元帥に任じられるが、シャルル7世の不信やラ・トレモイユの暗躍により下野を余儀なくされる。その状況が一変するのがオルレアン包囲戦とジャンヌ・ダルクの登場である。リッシュモンはジャンヌと合流してパテーの戦いでイングランド軍に勝利、シャルル7世のランス大聖堂での戴冠、ジャンヌの火刑と慌ただしく事態が進む中、シャルル7世の姑ヨランド・ダラゴンの尽力によりラ・トレモイユは1433年に追放され、リッシュモンは元帥に復帰する。 水を得た魚の如く活発になったリッシュモンは1445年から1448年にかけて常備軍を組織し、火砲に改良を加えて集中的に用いるようにした。リッシュモンは軍事面だけではなく政治面でも優れた能力を発揮し、1435年のアラスの和約で鍵とも言えるブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)との同盟に成功した。イングランド軍は1450年のフォルミニーの戦いでリッシュモン率いる火砲部隊に粉砕され、1453年のカスティヨンの戦いを経て百年戦争はフランスの勝利に終わった。 1457年にリッシュモンは甥でジャン5世の息子フランソワ1世・ピエール2世兄弟が相次いで死去した後を継いでブルターニュ公アルテュール3世となったが、高齢だったため翌1458年に栄光に満ちた65年の生涯を閉じた。
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