百年戦争の趨勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:11 UTC 版)
百年戦争はジャンヌの死後も22年にわたって続いた。トロワ条約に則ってフランス王位を主張するイングランド王ヘンリー6世が、10歳の誕生日である1431年12月にフランス王としての戴冠式をパリで挙行してはいたが、フランス王シャルル7世はフランス王位の正当性を保ち続けることに成功していた。 イングランド軍が1429年のパテーの戦いで失った軍事的主導権と長弓部隊を未だ再編成できていなかった1435年に、アラスでフランス、イングランド、ブルゴーニュの3か国会議が開かれた。この会議でそれまでのイングランドとブルゴーニュとの同盟関係は解消され、逆にフランスとブルゴーニュの関係が接近することとなり、アラスの和約締結に繋がった。 シャルル7世との百年戦争を主導し、ヘンリー6世の摂政としてイングランドの国政も担当していたベッドフォード公が1435年9月に死去したが、10代半ばのヘンリー6世は後見人たる新たな摂政を置かず、イングランド史上最年少の国王親政を始めた。そしておそらくはこのヘンリー6世の貧弱な指導力が百年戦争終結の最大の要因となった。歴史家ケリー・デヴリーズは、ジャンヌが採用した積極的な砲火の集中と正面突破作戦が、その後のフランス軍の戦術に影響を与えたとしている。 ジャンヌの死後にフランス軍を率いて活躍したのはリッシュモンで、パテーの戦いからシャルル7世に疎まれ再度遠ざけられていたが、1432年にヨランドの要請で復帰、翌1433年に政敵のラ・トレモイユを追放して宮廷の実権を握った。それからリッシュモンは軍事・外交に手腕を発揮して各地でイングランド軍を駆逐、ブルゴーニュとフランスの和睦にも尽力して交渉をまとめ上げ、1435年に両国の和睦を果たし、1436年4月13日にパリをイングランドから奪還する手柄を挙げた。 パリ解放後もリッシュモンは活発な軍事活動を展開、ラ・イルとザントライユらジャンヌの戦友たちもリッシュモンのもとで従軍してフランス奪還を進めていった。1439年にリッシュモンはシャルル7世とともに貴族への課税と正規軍創設を考え、反対する貴族たちを1440年のプラグリーの乱で平定、イングランド軍掃討を続け1445年には正規軍制度を発足、大砲部隊も充実させフランス軍を精鋭部隊へと改良した。この軍隊を率いてリッシュモンは1449年にノルマンディーの大半を平定、翌1450年に奪還を図ったイングランド軍をフォルミニーの戦いで撃破、勢いに乗りノルマンディーをすべて制圧した。そして1453年にフランス軍はカスティヨンの戦いでタルボットを討ち取り、ボルドー平定をもって百年戦争を終結させた。
※この「百年戦争の趨勢」の解説は、「ジャンヌ・ダルク」の解説の一部です。
「百年戦争の趨勢」を含む「ジャンヌ・ダルク」の記事については、「ジャンヌ・ダルク」の概要を参照ください。
- 百年戦争の趨勢のページへのリンク