百年戦争下のアキテーヌ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 07:17 UTC 版)
「アキテーヌ公」の記事における「百年戦争下のアキテーヌ」の解説
「百年戦争」および「第一次カスティーリャ継承戦争」も参照 1327年に即位したエドワード3世とヴァロワ家のフランス王フィリップ6世との間には、フランス王位をめぐる継承問題、スコットランドへのフランスの支援、フランスからイングランドへの亡命貴族ロベール・ダルトワに対するイングランドの支援などを巡って対立が生じ、1337年5月24日フランス王フィリップ6世はイングランド王からのアキテーヌ公領没収を宣言した。同年11月、エドワード3世はフランスに宣戦布告し、百年戦争が始まった。 1355年、エドワード3世の長子エドワード黒太子はボルドーに上陸、1356年9月19日ポワティエの戦いにおいてエドワード黒太子は勝利し、フランス王ジャン2世を捕えた。1360年5月8日のブレティニーの条約において、アキテーヌにおけるイングランドの主権が認められた。 1367年から1369年にかけ、エドワード黒太子はカスティーリャ遠征を行ったが敗退し、その後黒太子は財政難に陥り、アキテーヌで新たな戸別税を三部会に承認させた。これに反発したアルマニャック伯などがシャルル5世に上訴し、パリ高等法院は黒太子に出頭を求めたが黒太子は応じず、両国の関係は悪化、同年11月30日、シャルル5世はアキテーヌの没収を宣言した。 1369年、王弟アンジュー公ルイはルエルグ、ケルシー、ペリゴールに侵攻、1372年にはベルトラン・デュ・ゲクラン率いるフランス軍がポワトゥー、サントンジュ、アングレームを奪還した。休戦期間を経て、1404年には両国の関係は再び悪化、シャルル6世はフランス軍をギュイエンヌ地方に派遣し、イングランド勢力の駆逐を試みたが失敗に終わっている。15世紀には、ギュイエンヌ地方はその独立性がほぼ保たれ、イングランド王からの抑圧はほとんど受けていなかった。 1451年、イングランド国内が政情不安定の中、フランス王シャルル7世はギュイエンヌ遠征軍を招集し、デュノワ伯を指揮官とした。フランス軍はブレイ、ブール、フロンサック、リブルヌ、サン・テミリオンなどの都市を降伏させ、同年6月12日にはシャルル7世とギュイエンヌ地方の三部会との間で税金の免除などの条件を含む降伏条約が締結された。 しかし、条約に反して翌1452年夏からボルドー地方で税金が徴収され、ボルドー地方はイングランドと通じるようになった。同年10月23日、イングランド側のギュイエンヌ代官ジョン・タルボットはボルドーを奪還、リブルヌ、カスティヨンなどの諸都市がイングランド軍に降伏した。しかし、1453年7月17日タルボットに率いられたイングランド軍はカスティヨンの戦いで敗北し、その他の諸都市もフランス軍に降伏、以後アキテーヌはフランス王領となった。
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