百年戦争とランカスター朝の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 01:06 UTC 版)
「薔薇戦争」の記事における「百年戦争とランカスター朝の成立」の解説
ブレティニー・カレー条約時(1360年)のイングランドとフランスの領域。(フランス語).mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{} イングランド王領域 ブレティニー・カレー条約によるイングランド獲得地 トロワ条約時(1420年)のイングランドとフランスの領域。(フランス語) フランス王領域 ブルゴーニュ公領 1330年代のスコットランド政策を巡ってのフランス王フィリップ6世とイングランド王エドワード3世との対立が百年戦争の発端となった。当時のイングランド王は大陸に領地を有するアキテーヌ公を兼ねており、フランス王の封臣としての立場でもあった。フィリップ6世がエドワード3世の封臣礼の不備を理由にアキテーヌ領の没収を宣言すると、エドワード3世はヴァロワ家のフィリップ6世の即位の不法性を申し立て、1340年に自ら「フランス王」を宣言してフィリップ6世と開戦した。エドワード3世と有能な将帥であるエドワード黒太子はクレシーの戦い(1346年)とポワティエの戦い(1356年)でフランス軍に大勝して戦局を有利に進めた。1360年のブレティニー・カレー条約で王位請求権放棄の見返りに旧アンジュー王領の回復とカレー、ポンティユー、ギーヌの割譲をフランス王に呑ませることに成功する。だが、その後、国内では反乱が起こり、黒太子が病に倒れたことで戦況も不利になり、カレー、ボルドーを残して征服した領域のほとんどを失ってしまう。 薔薇戦争につながる「大貴族間の抗争」はエドワード3世によって種をまかれた。エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーは13人の子をもうけており、成人した男子は5人である。エドワード3世は彼らをイングランド貴族の女子相続人と娶わせ、クラレンス、ランカスター、ヨークそしてグロスターといったイングランド初の公爵家を創設させた。これら公爵家の子孫たちは、最終的には国王位を巡って相争うようになる。 1377年にエドワード3世は死去し、王位はその前年に没したエドワード黒太子の子でわずか9歳のリチャード2世が継承した。エドワード3世の子で初代クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープもまた後を追って死去しており、娘のフィリッパが残され、リチャード2世の王位継承権者(推定相続人)となった。フィリッパは第3代マーチ伯エドマンド・モーティマーと結婚した。1381年にエドムンドとフィリッパは相次いで死去した。子のないリチャード2世は彼らの息子の第4代マーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名したが、ロジャーは1398年に死去してしまい、第5代マーチ伯エドマンド・モーティマーが残された。黒太子の系統が断絶した際には長男子相続権法に基づけばライオネル・オブ・アントワープの子孫である第5代マーチ伯が王位を継承するべきであった。だが、実際にはそうはならず、このことが薔薇戦争の決定的な要因となった。 ヘンリー4世 ヘンリー5世 百年戦争に苦戦していたリチャード2世は、ワット・タイラーの乱をはじめとする頻発する民衆反乱に悩まされ、国費の浪費と寵臣政治が議会から批判を受けた。1399年に叔父のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが死去すると、リチャード2世はジョン・オブ・ゴーントの嫡子ヘンリー・ボリングブルックを領地没収と国外追放に処した。ボリングブルックは帰国し、当初はランカスター公位の回復を主張していた。多くの貴族が彼を支持するようになると、彼はリチャード2世を廃位してヘンリー4世として即位し、ここにランカスター朝が成立した。若年のエドムンド・モーティマーの王位継承権を支持する貴族はいなかった。しかし即位から数年がたつと、ヘンリー4世はウェールズ、チェシャーそしてノーサンバーランドでの反乱に直面することになり、これらの反乱は第5代マーチ伯エドムンド・モーティマーの王位継承を大義名分に利用した。これらの反乱は、幾らかの困難を伴いながらも鎮圧された。 1413年、ヘンリー4世が死去するとヘンリー5世が王位を継承した。果断な性格であったヘンリー5世は、国内が安定していたことから中断していた百年戦争を再開すると、1415年自ら兵を率いてフランスへ侵攻し、アジャンクールの戦いにおいてフランス諸侯の連合軍を打ち破った。そして1420年、フランスとトロワ条約を結び、ヘンリー5世の子孫によるフランス王位継承権を認めさせた。 ヘンリー5世の9年間の治世ではサウサンプトンの陰謀事件(英語版)が起こっており、エドワード3世の第4子エドマンド・オブ・ラングリーの子であるケンブリッジ伯リチャード・オブ・コニスバラがアジャンクールの戦いに先立つ1415年に反逆罪で処刑されている。ケンブリッジ伯の妻で王位継承権を有するアン・モーティマー(ライオネル・オブ・アントワープの曾孫でロジャー・モーティマーの娘)は1411年に死去している。アンの弟の第5代マーチ伯はヘンリー5世に忠実であり、1425年に子を残さずに死去しており、その王位継承権と称号はアンの子孫に相続された。 ケンブリッジ伯とアン・モーティマーの子のリチャードは父が処刑された時には4歳であった。ケンブリッジ伯は私権を剥奪されたが、後にヘンリー4世はアジャンクールの戦いで戦死したケンブリッジ伯の兄のヨーク公エドワードの称号と領地をリチャードに相続させている。ヘンリー5世には3人の弟がおり、彼自身も壮健で結婚もしており、ランカスター家の王位は揺るがぬものと見られていた。
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