百年戦争での動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 14:32 UTC 版)
「ジャン1世 (ブルゴーニュ公)」の記事における「百年戦争での動向」の解説
アルマニャック派を中心とするフランス軍は10月25日にアジャンクールの戦いで大敗し、フランスは一層混乱に陥った。無怖公はアルマニャック派へ援軍提供を申し込んだが拒否されたため軍を自領の防衛に止めたが、2人の弟アントワーヌとフィリップはアルマニャック派に加わりアジャンクールの戦いで戦死している。戦後に王太子とベリー公も死亡したが、アルマニャック伯がパリで政権を保っていたため無怖公はパリ奪回を窺った。新しい王太子にルイの弟ジャンが立てられ、無怖公の姪ジャクリーヌ・ド・エノーを妻にしていたことからジャンと接触を図ったが、1417年4月に早世したため振り出しに戻った。 イングランドはフランス侵略を進めながら無怖公へ接触するが、無怖公の動きは曖昧で分かり辛くなっていく。1416年10月に会見したヘンリー5世と無怖公が取り付けた秘密交渉で無怖公はヘンリー5世のフランス王位継承権を認め極秘援助も約束したが、シャルル6世に反抗せず表立って宮廷と敵対しない道を選んだからである。しかしアルマニャック派との対立は継続しパリの様子を眺めたが、1417年にアルマニャック派と対立してパリを退去したイザボーを11月に保護、トロワで彼女を擁立した政権を樹立した。 1418年にアルマニャック伯がパリの暴徒に暗殺され、ブルゴーニュ派の軍がパリへ入城、以降ブルゴーニュ派がパリと王を支配するようになった。しかし両派の対立によりイングランドに対し有効な手を打てず、ノルマンディーを征服される結果となった。このため1419年に、王太子シャルル(後のシャルル7世)と無怖公はイングランドに対して共闘すべく和解の交渉を行ったが、交渉の場であるモントロー(フランス語版)で無怖公は12年前のオルレアン公ルイ暗殺に対する復讐として王太子の支持者により暗殺された。事件の詳しい内容は現在も分かっておらず、アルマニャック派の計画的な犯行だったのか、小競り合いから殺人へと至ったのか諸説ありはっきりしない。これにより、跡を継いだ長男のフィリップ3世はイングランドと公式に同盟を結んで王太子と敵対し、ヘンリー5世のイングランド・フランス二重王国へと道を開くことになる。 無怖公はフランスでの地盤確保は最終的に失敗したが、ネーデルラントでは着実に布石を打ち、1408年のリエージュ反乱鎮圧を機に介入を深め、甥でアントワーヌの遺児ジャン4世とジャクリーヌを結婚させエノー・ホラント・ゼーラント伯領の継承権を握った。死去直前の1419年2月に公位相続前のフィリップ3世がジャクリーヌと文書を交わし、将来はヴァロワ=ブルゴーニュ家が伯領を継ぐことを明文化した。リエージュもブルゴーニュの保護領となり、無怖公の下でネーデルラントの一体化と相続が進められていった。
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