サウサンプトンの陰謀事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 07:17 UTC 版)
「リチャード・オブ・コニスバラ」の記事における「サウサンプトンの陰謀事件」の解説
爵位に見合う所領やその他贈与が与えられなかったことで、ケンブリッジ伯リチャードは国王に不満を抱き、大蔵卿に昇進していた同輩のスクループ卿を首謀者とする国王暗殺計画に参加した。スクループ卿の陰謀計画は、ヘンリー5世を暗殺したのちケンブリッジ伯の義弟マーチ伯を王位に就けるという内容で(かつてリチャード2世はエドマンドの父ロジャーを王位継承者に指名していた)、ケンブリッジ伯は娘婿の大諸侯トマス・グレイ卿(英語版)を味方に引き入れたのち、本拠地・コニスバラ城から南進してウィンチェスターに至り、近郊にある自邸でスクループ卿らと陰謀計画を進めた。計画は、北方をノーサンバランド伯(グレイ卿と親戚関係にあった)、西部をマーチ伯、ウェールズをグレンダワーの協力を得て制圧し、さらに逃亡中のロラード派指導者オールドカースルやスコットランドの協力をも取り付けるという全国規模の壮大なものであった。計画立案の過程でマーチ伯にも陰謀が打ち明けられたが、陰謀の失敗を恐れたマーチ伯が暗殺実行前日の7月31日にポーチェスター城(英語版)滞在中のヘンリー5世に知らせたため、陰謀は露顕することになった。 フランス渡航直前のヘンリー5世は陰謀を重く受け止め、迅速に行動した。翌8月1日にケンブリッジ伯らはサウサンプトンに集結していたフランス遠征軍に紛れていたものの拘束・収監され、グレイ卿は翌日の裁判で全てを告白したのち即日斬首刑に処された。ケンブリッジ伯とスクループ卿も貴族列席の裁判にかけられ、8月5日、ケンブリッジ伯は斬首刑に、陰謀首謀者のスクループ卿は絞首刑ののち四つ裂き・梟首に処された。一連の事件はサウサンプトンの陰謀事件(英語版)と呼ばれる(陰謀を密告したマーチ伯と、既にランカスター朝への祖父と父の反逆罪を赦されていたノーサンバランド伯が罪に問われることはなかった)。
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