第2次内閣までの野党時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 05:17 UTC 版)
「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の記事における「第2次内閣までの野党時代」の解説
以降5年にわたって野党党首時代を送った。この間、保守党庶民院院内総務ディズレーリは政権に対して徹底対決路線をとったが、一方ダービー伯爵はピール派を保守党に呼び戻したいという意図から徹底対決路線を避けようとした。 クリミア戦争については、アバディーン伯爵がはじめからフランスを支持するとロシア皇帝に通達しておけば、恐らくロシアはバルカン半島への侵攻など企まなかったであろうと主張して、アバディーン伯爵政権の優柔不断な外交を批判した。しかし開戦後は挙国一致体制のためとして、原則として政府の戦争遂行を支持するという立場をとった。 首相がホイッグ党のパーマストン子爵に代わった後の1856年に勃発したアロー戦争については、「私は弱者を擁護する者である。強大なイギリスに対して弱き中国のために一助を惜しまぬものである」として戦争反対を表明した。一方、ディズレーリは国民の愛国ムードを敏感に感じており、これを争点にしても勝ち目はないと正しく予見していたが、党首ダービー伯爵はアロー戦争反対で政府に闘争を挑むことを決定してしまった。 保守党、ピール派、急進派の賛成多数でパーマストン子爵を批判する決議が採択されると、パーマストン子爵は1857年4月に解散総選挙(英語版)に打って出た。選挙は党派を超えてパーマストン子爵を支持する議員が大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した。保守党全体としては20議席ほど減らす結果となった。 あてが外れてダービー伯爵は意気消沈したという。
※この「第2次内閣までの野党時代」の解説は、「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の解説の一部です。
「第2次内閣までの野党時代」を含む「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の記事については、「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の概要を参照ください。
- 第2次内閣までの野党時代のページへのリンク