第2次出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/20 06:20 UTC 版)
「第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」の記事における「第2次出兵」の解説
休戦条約により軍事行動は制限されていたが、シュレースヴィヒ=ホルシュタインの自治獲得運動は継続されていたため、これを看過できなくなったデンマークは休戦期間を2か月残したまま独断で軍事行動を起こした。1849年4月5日にはデンマーク海軍がシュレースヴィヒ公国のエッカーンフェルデ湾を襲撃し、艦隊4隻で艦砲射撃を行ったが、守備隊のドイツ連邦軍砲兵と湾内で撃ち合いとなり、デンマーク艦隊の2隻が降伏し、ドイツ側指揮官のザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト2世が名を挙げた。 詳細は「エッカーンフェルデの戦い」を参照 休戦が破られたことでドイツ連邦軍は怒り、ザクセン軍とバイエルン軍はシュレースヴィヒへ侵入し、デュッペル堡塁を攻撃して陥落させた。エードゥアルト・フォン・ボーニン将軍のプロイセン軍も前進してデンマーク領コリングでデンマーク軍と戦って撃破した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインの軍も追撃を行ったがフレゼリシアで敗北した。戦局がドイツ有利に進んでいたこの局面でもイギリス・フランス・ロシア諸国の外交干渉があった。イギリスの調停案はシュレースヴィヒをデンマーク、ホルシュタインを分離独立させるものであり、プロイセンは賛成し休戦を望んだが、デンマークおよびオーストリアは反対した。結局、休戦のみ成立したためプロイセン軍は撤収した。
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