第2次以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 01:53 UTC 版)
関東大震災後、『解放』復刊の動きは何度かあったものの実現には至らず、1925年(大正14年)に山崎今朝弥が刊行していた日本フェビアン協会の機関誌『社会主義研究』が同年7月号より『改造』の名称を用い、最終的にこれを総合雑誌化する形で同年10月号より正式に復刊された。山崎は改造社を同人制にして石川三四郎・新居格・小川未明・赤松克麿・麻生久ら13名を同人とした。復刊後の定価は50銭。より急進的な社会主義の論調を強め、また、谷口善太郎・水谷長三郎・片山哲・三輪寿壮・高津正道・阪本勝・河野密ら新たな執筆陣を迎えた。 文芸欄では葉山嘉樹・林房雄・村山知義・平林たい子・山内房吉・青野季吉が活躍し、プロレタリア文学の一大拠点となった。だが、売上は不振となり、山崎は1927年(昭和2年)4月号をもって従来を形態での慣行継続を断念した。翌月より山崎と少数の編集者による友人制雑誌となるが、メンバーを江口渙・小川未明ら日本無産派文芸連盟会員が占めたため事実上同連盟によってその機関誌化した。だが、経営権を握る山崎と編集権を握る日本無産派文芸連盟の対立から翌年1月号をもって日本無産派文芸連盟が決別宣言を発表した。山崎は翌月から全国無産団体協議会の助けを借りてその機関誌として存続を図るが判型なども統一出来ず、1933年(昭和8年)3月号を最後に刊行自体が不詳になる(以後、発行年月が不詳の号や過去の再発行らしきものがあるが前後関係を追うことが不可能である)。 その後、1934年(昭和9年)には渡辺潜が編集権を獲得して麻生久・田所輝明・菊川忠雄らとともに10月号より社会大衆党系の雑誌として復活しており、1936年(昭和11年)まで刊行されていることが確認されているが、こちらもその後の動向は不明である。
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