レオ・ゴメスとは? わかりやすく解説

レオ・ゴメス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/04 06:14 UTC 版)

レオ・ゴメス
Leo Gómez
ボルチモア・オリオールズ時代
(1993年4月5日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 プエルトリコ自治連邦区カナバナス
生年月日 (1966-03-02) 1966年3月2日(59歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手
プロ入り 1985年 アマチュアFA
初出場 MLB / 1990年9月17日
NPB / 1997年4月4日
最終出場 MLB / 1996年9月29日
NPB / 2002年7月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

レオナルド・ゴメス・ベレスLeonardo Gómez Vélez , 1966年3月2日 - )は、プエルトリコ出身の元プロ野球選手内野手)。

1997年から2002年まで6シーズン、NPBセントラル・リーグ)の中日ドラゴンズに所属。1997年・1999年にはシーズン30本塁打以上を記録し、1999年には中日のセ・リーグ優勝に貢献した。中日時代の通算成績は660試合出場、2355打数、690安打打率.293、153本塁打、449打点

経歴

メジャー昇格まで

1985年12月、ルイス・エルナエス・ネボネス高校からボルチモア・オリオールズドラフト外入団した[1][2]。兄のマルコもミルウォーキー・ブルワーズマイナーリーグ球団でプレーしたが、成功しなかったという[1]

1987年にはマイナーリーグA級ヘイガースタウン英語版打率.326を記録し、カリフォルニアリーグ首位打者を獲得した[2]。また1989年にはAA級イースタン・リーグ三塁手として最多捕殺数(257個)を記録した[1]

MLB時代

1990年にはAAA級ロチェスターインターナショナルリーグの打点王(97打点)を獲得し、同リーグの三塁手として最多併殺参加(26回)を記録した[2]。同年にはAAAで3打席連続本塁打も記録し[3]メジャー初昇格を果たすと、12試合に出場して39打数9安打、打率.231を記録した[1]。同年から1995年までに、オリオールズの三塁手としてはブルックス・ロビンソンダグ・デシンセイに次ぐ球団史上3位となる443試合に出場している[1]

1991年には118試合に出場、391打数91安打、打率.233、16本塁打、45打点を記録した[1]

1992年も137試合に出場、468打数124安打、打率.265、17本塁打、64打点を記録した[1]

1993年は71試合と出場機会を減らし、244打数45安打、打率.197と低迷したが、10本塁打、25打点を記録した[1]

1994年には84試合に出場、285打数78安打、15本塁打、56打点を記録[1]、特に得点圏打率.379、満塁時の打率.571、7回以降2点差以内という状況では打率.341と、勝負強さを発揮していた[4]。また守備面でも、アメリカンリーグの三塁手として2位となる守備率.975を記録した[2]

1995年6月に右足首を捻挫し[4]、同年はその影響で53試合の出場に終わり、127打数30安打、打率.236、4本塁打、12打点の成績にとどまった[1]。また出場機会の減少については、当時の監督であったジョニー・オーツから好まれなかったためであるという報道もある[1]。同年オフにはオリオールズを解雇された一方[1]中日ドラゴンズはこの時点でゴメスを新外国人の候補としてリストアップしていたが、当時は足首の故障の治療が長引く心配があったため、ゴメスの獲得は見送り、彼より遅くリストアップされていたダネル・コールズを獲得した[2]。中日は1993年から1995年にかけ、ブルック・ジャコビーディオン・ジェームズメル・ホールと3年連続で故障のある外国人選手を獲得して失敗に終わってきたことから、候補選手の故障歴などを徹底的に調べ、コールズを獲得したと報じられている[5]。また同年には読売ジャイアンツ(巨人)も新外国人候補の一人としてゴメスをリストアップしていたが、最終的にはジェフ・マントを獲得した[6]

1996年シカゴ・カブスに在籍し、136試合に出場して362打数86安打、打率.238、17本塁打、56打点を記録した[1]。同年、故郷プエルトリコで開催されたウィンターリーグでは、中日入りが発表された12月18日までに30試合に出場し、打率.270、8本塁打、23打点を記録しており 本塁打・打点ではいずれもリーグトップであった[1][7]。同年までのMLBにおける通算成績は611試合出場、1916打数、466安打、打率.243、79本塁打、259打点、4盗塁[4]

第1次中日時代

1996年12月18日、金銭トレード星野仙一が監督を務めていた中日に入団することが発表された[7]。移籍金は1000万で、来日時の契約は契約金2000万円、年俸1億2000万円のだった[1][7]。契約期間は1997年シーズンの1年だったが[1][7]、球団側に2年目(1998年)の契約更新を選択する権利があった[8][9]

同年の中日は「強竜打線」と評された一方で「四番不在」とも言われていたことから、オフには新外国人として「四番を打てるスラッガー」か「攻・走・守三拍子そろったスピードのある選手」を求め[1]、打率.302、29本塁打と安定した力を発揮したコールズを足の故障などを理由に解雇しており、彼に代わる新外国人として四番を任せられる三塁手を探し、ゴメスを獲得した[2]。また前述のように一度獲得を見送った経緯もあったが、1996年シーズンの活躍から故障は完治したと判断、獲得に踏み切った[4]。同年オフにはMLBの球団数が28から2つ増え、30に拡張されたことから、新外国人選手は例年より「小粒」と評されていたが[10]、ゴメスはその中でもマイク・グリーンウェル阪神タイガースに入団)やマーク・キャリオン千葉ロッテマリーンズに入団)とともに、数少ないMLBで一応の実績を残している選手だった[11]

1997年

ゴメスは来日1年目の1997年から、勝負強い打撃で主に四番打者として活躍した。同年5月5日の対ヤクルトスワローズ6回戦(明治神宮野球場)では1点リードの5対4で迎えていた7回表、高津臣吾から満塁本塁打を放つなど、4安打でチームの勝利に貢献した[12]。同年10月1日の対ヤクルト28回戦(ナゴヤドーム)では5対5の同点で迎えていた9回裏、二死一塁で岩崎久則から30号サヨナラ2点本塁打を放った[13]。翌2日の対横浜ベイスターズ25回戦(ナゴヤドーム)でも、2点ビハインド(2対3)で迎えた8回裏の打席で西清孝から逆転31号2点本塁打を放ち、これが決勝打となった[14][15]

同年のチームは、本拠地ナゴヤ球場からグラウンドが広いナゴヤドームに移転した直後で、その適応に苦しみ、セ・リーグ最下位に低迷したが、ゴメスはそれを苦にしない長距離打者として135試合に出場し、打率.315、31本塁打、81打点、OPS.966と好成績を残した[16]。打率・本塁打・打点の全てがチームトップであり[8]、特に本塁打数は本塁打王のタイトルを獲得したドゥエイン・ホージーヤクルトスワローズ:38本)、松井秀喜読売ジャイアンツ〈巨人〉:37本)、金本知憲広島東洋カープ:33本)、清原和博(巨人:32本)に次ぐリーグ5位で、チーム最多だった[17]。また来日1年目に30本塁打以上を記録した中日の外国人選手は、ジーン・マーチンゲーリー・レーシッチに次いでゴメスが3人目であった[13]。このような好成績から三塁手部門でセ・リーグのベストナインに選出され[18]、また球団はゴメスが家族の暮らすアメリカ合衆国へ帰国する同年10月7日以前に契約延長を決定していた[8]

しかし、戸部良也はゴメスが本塁打の出にくいナゴヤドームを「モンスターだ」と恐れていた旨を述べている[19]。また同年のチームの低迷の要因としては、ゴメス以外に主軸打者を担っていた大豊泰昭アロンゾ・パウエル山崎武司がいずれも低迷していたことが挙げられており、『中日スポーツ』は同年にそれぞれセ・両リーグで優勝を果たしたヤクルトや西武ライオンズには四番打者の古田敦也鈴木健だけでなく、彼らとともに主軸を打ったドゥエイン・ホージードミンゴ・マルティネスといった強打者がいたことと比較する形で、四番打者1人の活躍だけではチームは浮上できないと指摘していた[20]

走者別の打撃成績内訳は、走者なしで打率.305(269打数82安打)、17本塁打、17打点、一塁のみの場合は打率.371(105打数39安打)、8本塁打、18打点、二塁のみの場合は打率.250(28打数7安打)、2本塁打、8打点、一・二塁の場合は打率.279(43打数12安打)、1本塁打、12打点、三塁のみの場合は打率.400(10打数4安打)、0本塁打、4打点、一・三塁の場合は打率.313(16打数5安打)、2本塁打、14打点、二・三塁の場合は打率.000(2打数0安打)、0本塁打、0打点、満塁の場合は打率.300(10打数3安打)、1本塁打、8打点であった[20]。得点圏打率では打率.284、6本塁打、46打点の打撃成績だった[21]

1998年

1998年は大豊、パウエルが放出されたチームにあって、ゴメスは山崎とともに本塁打を量産できる数少ない打者として期待された[22]。しかし体重増が裏目に出て膝を故障したため、シーズン中2度にわたって戦線離脱した[23]。一方で後半戦には勝負強さを発揮し、打率も9月10日時点で2割8分台まで上げてきたことを評価され、同日時点では既に翌1999年シーズンの残留の内定を得ていたが[24]、チームが横浜とリーグ優勝争いをしていた同月には[23]、18試合で2本塁打、3打点の成績に終わり、これが原因でチームは横浜に振り切られて優勝を逃す結果となった[25]。星野はこの不振の要因について、シーズン途中で翌シーズンの契約を明言したことが要因になったためではないかと述べている[25]

しかし、シーズンでは打率.274、26本塁打、76打点を記録した[26]。本塁打数は同年のセ・リーグの外国人選手としては最多で[27]、リーグ全体でも本塁打王を獲得した松井(34本)や、広島の江藤智(28本)、そしてチームメイトの山崎(27本)に次ぐ4位であった[28]。同年10月12日に帰国したが、その前に現状維持となる年俸1億5000万円で翌シーズンの契約を締結していた[26]

1999年

1999年は前年の故障を踏まえ、減量して春季キャンプに臨んだ[16][29][30]ほか、打撃フォーム改造にも取り組んだ[16]。それが功を奏し、オープン戦から打率4割超、6本塁打と好成績を残し、開幕後も四番打者として中日打線を牽引[16]。開幕から12試合連続で本塁打を打てずにいたが[31]、4月18日に東京ドームで開催された対巨人3回戦では[注 1]2回表に先発投手岡島秀樹からシーズン初本塁打となるソロ本塁打、3回表にも岡島から2打席連続となる3点本塁打を放った[3]。これにより、チームは同回終了時点で5対0と大量リードを果たしたが、その裏の守備で、二死満塁の場面で清原和博の三塁ゴロをトンネルしてしまう[3]。これがきっかけで、チームは同回に6点を失い、先発投手の鶴田泰がノックアウトされてしまった[27]。しかし5回表、「鶴田に悪いことをした」[27]「(自身の失策を)なんとかしたい」と第3打席に立ち、岡田展和から3打席連続となる再逆転2点本塁打を打った[3]。その後、8回表には二死満塁で5打席目を迎え、ここで満塁本塁打を打てばNPB史上初かつMLBでも達成した者のいない「サイクル本塁打」(サイクルホームラン)が達成されるところであったが、空振り三振に倒れ、記録達成はならなかった[31]。それでもこの試合で来日後始めて3打席連続本塁打を記録した[29]。その後、4月下旬から5月にかけて調子を落とした時期もあった[29]ものの、復調し、6月27日の横浜戦(ナゴヤドーム)では自己最速となる65試合目で20号本塁打に到達した[32]また前年とは異なり、シーズン中に残留内定を通告されることはなったが、9月に入ってからも好成績を残し続けた[25]

最終的には133試合に出場し、打率.297・36本塁打[33]、OPS.959[16]、そしてリーグ3位の109打点を記録[33]。36本塁打は、本塁打王を獲得したヤクルトのロベルト・ペタジーニ(44本)、松井(42本)、横浜のロバート・ローズ(37本)に次ぎ、広島の緒方孝市と並んでリーグ4位だった[34]。打点は当時の球団外国人選手の最高成績[23](2006年にタイロン・ウッズが144打点で記録更新)で、同年の中日のリーグ優勝に貢献した[16]。特に優勝争いをしていた巨人戦に強く、27試合で打率.359、13本塁打、28打点を記録したが、巨人戦シーズン13本塁打は球団史上最高で、NPB史上でも1973年田淵幸一阪神タイガース)が記録した16本塁打に次ぐ歴代2位だった[25]。また1997年から同年まで3年連続で20本塁打を記録したが、中日が本拠地をナゴヤ球場からナゴヤドームへ移転した1997年以降で、3年以上連続で20本塁打以上を記録した選手はゴメスが初である[35]同年の日本シリーズ終了後の10月29日、年俸2億円(前年比5,000万円増)の1年契約を締結した[30][33]

2000年

2000年は序盤は不振だったものの、5月に復調して月間MVPを獲得[36]。8月に寝違えにより、頸椎を捻挫した[37]ものの、打率.289、25本塁打、79打点の成績を残した[36]。本塁打、打点はチームトップで、前年までに引き続き、4年連続でシーズン20本塁打以上を記録した[36]。球団は翌2001年も契約する方針だったものの、10月5日、アメリカに住む長男の教育問題や、膝・背中の故障などを理由に退団することが発表された[16][36]

中日退団から復帰まで

2001年はピッツバーグ・パイレーツのキャンプに参加し、MLB復帰を目指していたが、開幕直前に解雇された。マイナー行きを拒否し、FAとなっていた[38]。FAとなった後は故郷・プエルトリコでトレーニングをしていた[39]

第2次中日時代

2001年、古巣の中日は新外国人のティム・アンローオジー・ティモンズを含め、打撃が振るわない状態だった[38]。中日からオファーを受け、4月21日に復帰することで合意[38]。4月28日に再来日し、5試合前後二軍戦に出場してから一軍昇格する予定だったが、チームの打線が深刻な不振に陥っていたため、5月3日の二軍戦に出場しただけで4日に一軍昇格[40]。同日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)から試合に出場した[40]。最終的に打率.306、19本塁打を記録した[16]。この年は右膝痛がひどく、特注のサポーターを着けてプレーしていた[41]

2002年も、右膝痛と闘いながら4番打者として活躍した。5月31日の対横浜戦(ナゴヤドーム)で左翼5階席に飛び込む推定飛距離140 mの特大本塁打を放った[42]。6月12日の対阪神戦(ナゴヤドーム)で6回裏に井川慶から左越に同点となるソロ本塁打を放ち、通算150本塁打を達成[43]。しかし、7月3日の対巨人戦(東京ドーム)で右膝痛を悪化させ戦線離脱[44]。その後も経過が思わしくないため、7月11日に右膝の精密検査を受けるためアメリカに帰国[45]。10月1日の『中日スポーツ』の記事で、同年限りでの退団が決定的となったことが報道され[46]、11月23日に翌年の契約を結ばないことが正式に発表された[47]。同年限りで現役を引退[16]。現役終盤は足やヒザの炎症に悩まされていたため、再入団後は一塁手での起用も多かった。

引退後

2010年時点では、オリオールズ傘下のマイナー球団でコーチをしていた。同年8月17日、オリオールズ対マリナーズ戦を星野が訪問した際、再会を果たす[48]

選手としての特徴

来日前は打率のキャリアハイは1994年の.274だった一方、1992年に17本塁打を記録するなど、7年間で5回の2桁本塁打を記録しており、安打の3分の1以上が本塁打であった[4]。来日時からパワフルな打撃が長所とされていた一方、打撃に安定感があるとも評されていたが、1996年シーズンは打率が.238と低調だったことから、来日当初は後者の評価については疑問を呈する声もあった[10]。その打撃はアッパースイングであり、ほとんどゴロを打たないとも評されていた[1]

また守備でも安定感があり、強肩であるとも評されていた[1]。一方で来日前はMLBで7シーズンプレーして5回故障者リスト入りしていること、1993年から1996年までの4年間で1996年の1盗塁のみと足が遅いことが懸念事項として挙げられていた[1]

人物

趣味は水上オートバイである。明るい性格で知られ、「陽気なプエルトリカン」の愛称で呼ばれ、子供のファンも多かった一方、日本人投手への対策を真剣に練る一面もあった[16]。また真面目な性格で、飲酒も喫煙もしなかったという[1]

敬虔なクリスチャンでロッカーで聖書を読んでいたり、将来の夢は牧師になることと語る。また、試合前にグレゴリオ聖歌を聞き、心を落ち着けていた。

好調時はヒゲを伸ばし続ける験担ぎを行っていた。

女優の武井咲はゴメスのファンであったことを公言している[49]。そのため、2012年開幕戦で武井が始球式[注 2]を務めた際には、中日の応援団がゴメスの応援歌を演奏していた。なお、この応援歌はゴメス入団の前年に在籍していたコールズの曲の流用である。また、この年には10年ぶりに来日し、11月29日TBS系列で放送された『ひみつの嵐ちゃん!』内のコーナー「シェアハウス」に宅配業者役で登場し、同番組にゲスト出演していた武井と初めて対面した[49]

1997年のみ中日でチームメイトになったアロンゾ・パウエルとは顔見知りで、来日に関して相談し合ったという[1]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1990 BAL 12 48 39 3 9 0 0 0 9 1 0 0 1 0 8 0 7 0 2 .231 .362 .231 .592
1991 118 445 391 40 91 17 2 16 160 45 1 1 5 7 40 0 2 82 11 .233 .302 .409 .711
1992 137 552 468 62 124 24 0 17 199 64 2 3 5 8 63 4 8 78 14 .265 .356 .425 .782
1993 71 284 244 30 48 7 0 10 85 25 0 1 3 2 32 1 3 60 2 .197 .295 .348 .644
1994 84 333 285 46 78 20 0 15 143 56 0 0 0 4 41 0 3 55 5 .274 .366 .502 .868
1995 53 149 127 16 30 5 0 4 47 12 0 1 0 2 18 1 2 23 0 .236 .336 .370 .706
1996 CHC 136 427 362 44 86 19 0 17 156 56 1 4 3 2 53 0 7 94 8 .238 .344 .431 .775
1997 中日 135 562 483 84 152 23 1 31 270 81 2 0 0 2 74 3 3 76 13 .315 .407 .559 .966
1998 116 488 420 57 115 14 0 26 207 76 1 1 1 5 57 7 5 66 10 .274 .363 .493 .856
1999 133 560 474 84 141 19 1 36 270 109 4 1 0 9 70 10 7 59 15 .297 .389 .570 .959
2000 122 509 440 59 127 19 1 25 223 79 1 2 1 5 57 8 5 75 18 .289 .373 .507 .880
2001 88 343 291 30 89 13 0 19 159 61 0 0 1 4 47 5 0 35 10 .306 .398 .546 .944
2002 66 279 247 34 66 10 0 16 124 43 0 0 0 2 29 4 1 39 4 .267 .344 .502 .846
MLB:7年 611 2238 1916 241 466 92 2 79 799 259 4 10 17 25 255 6 25 399 42 .243 .336 .417 .753
NPB:6年 660 2741 2355 348 690 98 3 153 1253 449 8 4 3 27 334 37 21 350 70 .293 .382 .532 .914
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

NPB

記録

NPB

背番号

  • 15 (1990年)
  • 11 (1991年)
  • 10 (1991年 - 1995年)
  • 12 (1996年)
  • 4 (1997年[注 3] - 2002年)

脚注

注釈

  1. ^ この試合では3番手投手として登板した岩瀬仁紀がプロ初勝利を挙げている[3]
  2. ^ 対戦相手は広島東洋カープ(ナゴヤドーム)。当初は2011年の開幕戦(3月25日開催予定だった)で始球式を務める予定だったが、東日本大震災発生の影響で開幕が遅れたことにより、中止となった(同年4月12日行われた開幕戦は横浜スタジアムでの対横浜戦)。ちなみに予定通り行われた場合も対戦相手は同じ広島だった。
  3. ^ いったん背番号4番で入団発表していた筒井壮内野手は、37番に変更した。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 中日スポーツ』1996年12月19日付第5版1頁「竜新外国人ゴメス ドームの四番だ 年俸1億2千万円 契約金2千万円で入団決定 1年契約、背番号「4」 「ベスト尽くしたい」」「ドリーム打線だ!!パウエル一番だ!!」(中日新聞社
  2. ^ a b c d e f 中日新聞』1996年12月14日朝刊運動第一面25頁「中日、ゴメス内野手(大リーグ・カブス)獲得へ 今季17発、パワーも魅力 守備も堅実」(中日新聞社
  3. ^ a b c d e 『読売新聞』1999年4月19日東京朝刊スポーツA面19頁「巨人、5点差はね返したが… 河村真司「中継ぎの差」に沈む/中日9-7巨人」(読売新聞東京本社 西山栄一)
  4. ^ a b c d e 『中日スポーツ』1996年12月14日付第5版1頁「竜新外国人ゴメス(シカゴ・カブス)獲得へ 29歳内野手「四番任せられる」 メジャー7年間で5度の2ケタ本塁打」(中日新聞社)
  5. ^ 『中日新聞』1996年2月11日朝刊運動1面25頁「〝コールズ砲〟契約 故障少ない巧打者 課題の内野も補強」(中日新聞社)
  6. ^ 日刊スポーツ』1996年1月24日付2頁「巨人 新外国人 オリオールズのマント獲得が濃厚」(日刊スポーツ新聞社
  7. ^ a b c d 『中日新聞』1996年12月19日朝刊運動第一面25頁「中日、ゴメス獲得 入団内定 堅守、長打の三塁手」(中日新聞社)
  8. ^ a b c 『中日スポーツ』1997年10月8日付第5版3頁「ゴメス笑顔で帰国 文句なしの成績、来季も竜で」(中日新聞社)
  9. ^ 『中日新聞』1997年10月8日朝刊運動1面29頁「プロ野球短信【中日】ゴメスが帰国」(中日新聞社)
  10. ^ a b 『読売新聞』1997年2月19日東京朝刊スポーツA面25頁「プロ野球、今年は小粒?外国人選手 期待と不安の〝新人〟」(読売新聞東京本社)
  11. ^ 『読売新聞』1997年1月7日東京夕刊スポーツA面3頁「大物外人選手獲得難に、 メジャー新設の余波 「実力派」争奪戦に限界/プロ野球」(読売新聞東京本社)
  12. ^ 『中日新聞』1997年5月6日夕刊運動1面9頁「セリーグ 第5節 5日 ゴメス満塁弾 中日10-6ヤクルト」(中日新聞社)
  13. ^ a b 『中日スポーツ』1997年10月2日付第5版3頁「ゴメス見せたド根性サヨナラ弾 ガマンが実った 中日7-5」(中日新聞社)
  14. ^ 『中日スポーツ』1997年10月3日付第5版1頁「郭源治、佐々木に並んだ 宣 日本タイ37S」(中日新聞社)
  15. ^ 『中日スポーツ』1997年10月3日付第5版3頁「ゴメス31号逆転弾 お見事連夜の大仕事 魔神出る前のスキ見逃さず 竜粘って3連勝 中日4-3横浜」(中日新聞社)
  16. ^ a b c d e f g h i j プロ野球死亡遊戯(中溝康隆)「レオ・ゴメス 武井咲もファンだった!星野中日“不動の四番”/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】」『週刊ベースボールONLINEベースボール・マガジン社、2019年1月30日。オリジナルの2022年3月13日時点におけるアーカイブ。2022年3月13日閲覧。
  17. ^ 読売新聞』1999年10月14日東京朝刊スポーツ面25頁「セ・本塁打(終了)」(読売新聞東京本社
  18. ^ 『中日スポーツ』1997年10月26日付第5版1頁「山本昌・ゴメス セ・リーグベストナイン受賞 セ、パ表彰選手決まる」(中日新聞社)
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