マイク・グリーンウェル
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ボストン・レッドソックス時代
(1986年) |
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1963年7月18日 |
| 没年月日 | |
| 身長 体重 |
6' 0" =約182.9 cm 205 lb =約93 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 外野手 |
| プロ入り | 1982年 MLBドラフト3巡目 |
| 初出場 | MLB / 1985年9月5日[1] NPB / 1997年5月3日[2] |
| 最終出場 | MLB / 1996年9月28日[3] NPB / 1997年5月11日[4] |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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マイケル・ルイス・グリーンウェル(Michael Lewis "Mike" Greenwell, 1963年7月18日 - 2025年10月9日)は、アメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビル出身の元プロ野球選手(内野手・外野手[5])、カーレーサー。右投左打[6]。愛称は「ザ・ゲーター」。
1985年から1996年にかけてMLBのボストン・レッドソックスでプレー[7]。通算打率.303、1400安打、130本塁打、726打点[8][9]、80盗塁の成績を記録し[6]、その実績からミスターレッドソックスと呼ばれた[10]。1997年には日本プロ野球 (NPB) の阪神タイガース(セントラル・リーグ)に入団したが、出場機会は5月の計7試合にとどまり、右足甲に自打球を当てて骨折したことから現役引退を申し入れて帰国[11]。阪神時代の通算成績は26打数6安打(打率.231)、0本塁打、5打点に終わった[12]。
ジョーイ・テルドスラビッチは甥にあたる[13][14]。
経歴
レッドソックス時代
北フォートメイヤース高校 (North Fort Myers High School) を経て[5]、1982年のMLBドラフト3巡目でボストン・レッドソックスから指名され、契約[5][8]。1985年9月5日にメジャーデビューを果たす[1]。当時は三塁手としてプレーしたが、やがて左翼手が主になり、1987年にレギュラー定着[5]。1996年までレッドソックスでプレーした[7]。
メジャー2年目の1986年にはまだレギュラーではなかったが、ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズにも出場。1987年からは外野手、指名打者 (DH) として主砲を務め、打率.328、19本塁打、89打点を記録し、アメリカ誌の「最優秀新人」に選出される[15]。1988年には158試合に出場して打率.325、22本塁打、119打点[注 1]の好成績を記録し[9]、シルバースラッガー賞を受賞[5]。当時のMLB新記録となる23勝利打点[注 2][5]、出塁率2位、長打率5位、敬遠四球1位の成績を記録し、アメリカンリーグ(ア・リーグ)のMVP投票でもホセ・カンセコ(オークランド・アスレチックスに次ぐ2位となる[16]。その後も1989年に打率9位、1993年には打率5位、メジャー通算打率.303で、MLBオールスターゲームにも2度出場する。三振(364)よりも四球(460)が多い[注 3]。しかし1992年に右膝を痛めてから出場機会が次第に減少し、特に1995年から1996年までの2年間は膝痛などの故障から出場機会を減らしていた[16]。また1996年はスプリングトレーニング中、バットを振っていた際に左手薬指を骨折して故障者リスト入りし、戦線離脱していたが、故障が完治してからは51試合に出場し、打率.332、6本塁打、35打点を記録した[17]。一方、同年シーズン途中には右手首を手術していた[18]。
阪神時代
阪神に入団
1996年オフ、グリーンウェルは高額年俸がネックとなり、レッドソックスとの契約を更新することができないまま12月を迎えた[19]。『毎日新聞』によれば、レッドソックスは1996年シーズンに年俸375万ドルで契約を結んでいながら故障などで77試合の出場にとどまっていたグリーンウェルに対し、フルシーズン働けないとの判断から、前年比67%減額となる年俸125万ドルの契約を提示していたという[20]。また、レッドソックスを自由契約になったとする報道もあり[17]、解雇の一因としては当時、レッドソックスが老朽化した本拠地球場のフェンウェイ・パークの改築費用を捻出するため、高額年俸選手をリリースしていたことが挙げられている[21]。仮にMLBの他球団がグリーンウェルの獲得を希望した場合、1997年シーズンの年俸は最高額でも、当時の為替レートで日本円に換算して約1億4000万円と予測されていたが、他球団からのオファーはなかったという[22]。
このため、グリーンウェルはNPBの近鉄バファローズなどに売り込みをかける[23]。横浜ベイスターズの国際業務担当を務めていた牛込惟浩によれば、グリーンウェルはNPBの全12球団に売り込みをしていたという[22]。また本人は、日本行きを決めた理由について「12年間のレッドソックスのキャリアが終わった後で、自分自身に大きな挑戦が必要であると考えた」と語っており、セシル・フィルダー、ケビン・ミッチェル、ラリー・パリッシュといったNPBでプレー経験のある選手たちから話を聞き、NPBに関する情報収集をしていたと語っている[18]。特にフィルダーや、彼と同じくかつて阪神タイガースでプレーしていたレッドソックス投手コーチのリッチ・ゲイルからは、それぞれ「日本に行くならタイガースだ」と言われていたという[21]。近鉄に加え、主砲・清原和博がフリーエージェントの権利を行使して退団(後に読売ジャイアンツへ移籍)した西武ライオンズや、清原の獲得に失敗した阪神(当時の監督・吉田義男[注 4])も獲得レースに参戦した[25]。しかし、グリーンウェルの代理人を務めていたジョー・スロバ(Joe Sroba)[注 5]は、MLB通算10年で220本塁打を記録し1995年に推定年俸約4億円で福岡ダイエーホークスに入団したものの、無断帰国・年俸の支払いをめぐるトラブルを起こしたケビン・ミッチェルの代理人も担当していた人物だった[注 6][29]。入団交渉当時、阪神球団の常務取締役を務めていた野崎勝義は、グリーンウェル本人には好感を持っていたが、スロバへの警戒心は最後まで解けなかったと語っている[30]。
後に近鉄は獲得を断念し[注 7][30]、争奪戦から撤退[31]。当初は西武[注 8]と契約寸前まで交渉が進んだが、阪神が好条件を提示して逆転獲得に成功したと報じられている[25]。一方で1996年のシーズン中に近鉄と西武がグリーンウェルを勧誘していたが、いずれも条件面で一致せず、グリーンウェルが断ったとする報道もある[21]。阪神は12月9日にグリーンウェルを身分照会し[32]、同月18日にグリーンウェルは自宅で阪神との契約を発表[5]、翌19日に阪神と契約を締結した[33][9]。当時、阪神は長期低迷から脱却すべく、チームの中心となる新戦力の補強を目指していたが、清原の獲得には失敗[23]。そのため、清原と同じ長距離打者である広沢克[注 9]の獲得を狙ったが、こちらも巨人監督の長嶋茂雄が「みんなほしい」と表明したため、失敗に終わった[6]。これにより、それまでは「強力な外国人選手は欲しいが、中心選手は日本人が良い」という構想を描いていた吉田も「今の阪神を変えられる実力を持った外国人を獲得したい」と方針転換し、グリーンウェルを獲得することとなった[35]。一方でグリーンウェルは当初、阪神球団の渉外担当者が作成したリストには含まれておらず、調査はされていなかったが、阪神はMLBでの実績に囚われ、また清原獲得に失敗したこともあって「大物外国人を獲得しなければ」(球団社長・三好一彦談)という事情からグリーンウェルの獲得に踏み切ったという報道もある[22]。1996年12月3日の阪神球団・現場首脳会談で、左打の外野手として5選手のリストが提出されていたが[16]、『デイリースポーツ』によれば、その候補に挙がっていた選手はマーク・スウィーニー(セントルイス・カージナルス)、マーク・ウィッテン(シアトル・マリナーズ)、ケビン・ロバーソン(シカゴ・カブス傘下AAA級)、エリック・アンソニー(コロラド・ロッキーズ)、そしてロバート・ペタギーンこと後にヤクルトスワローズなどで活躍するロベルト・ペタジーニ(ニューヨーク・メッツ)の5人であった[36]。球団はこれらの候補選手たちの中からアンソニーとロバーソンの2人に絞り[37]、アンソニーの場合は3億円程度、ロバーソンの場合は1億円程度をそれぞれ獲得予算として検討していると報じられたが[38]、最終的にはアンソニーは同年3度にわたって故障者リストに掲載されたことから獲得を断念[32]、またロバーソンも優先順位を下げた上で、当初はリストアップされていなかったグリーンウェルの獲得に方針転換したと報じている[39]。グリーンウェルも故障歴があったことが懸念材料となっていたが、阪神は1996年にグリーンウェルが左手薬指骨折で戦線離脱しながらも、その怪我は既に完治し、復帰後に好成績を残していたことから「問題ない」と判断していた[17]。
MLBは当時、1998年にチーム数が2つ増え、それまでの28から30になることが決まっていた(1997年のMLBエクスパンションドラフトを参照)ことから、新球団編成のために既存の28球団は新球団に選手を供出しなければならず、その余波から1996年オフのNPBの新外国人選手はMLBからの大物選手が少ないと評されており、グリーンウェルはその中でもレオ・ゴメス(中日ドラゴンズに入団)やマーク・キャリオン(千葉ロッテマリーンズに入団)とともに、数少ないMLBで一応の実績を残している選手であり[40]、阪神にとってはかつてのランディ・バースやフィルダーを上回り、歴代の外国人選手としてはナンバーワンの実績の持ち主と評されていた[17]。当初の契約では、年俸は当時球団史上最高額[注 10]の年俸300万ドル(当時の為替レートでは約3億3000万円)と報じられており[23][30]、2年契約で総額約600万ドル(約7億1500万円)の契約だったとも報じられているが[41]、そのうち必ず支払われる基本給は200万ドルで、残る100万ドルは出来高払いであった[20]。また、これらの年俸とは別に契約金として50万ドル、そして球団側が契約を途中で打ち切ったり、期間満了後に更新しなかったりする場合に支払われる「バイアウト」としても50万ドルが契約条項に盛り込まれていたと報じられている[20]。また契約締結にあたり、1997年1月28日の来日と、同年2月中旬に所用で約10日間キャンプを一時離脱することが確認されている[42]。背番号は本人がレッドソックス時代と同じ39を希望したため、阪神編成部長の西山和良はグリーンウェルの希望を受け、当時39を着用していた吉田康夫に背番号の変更を要請、吉田も快諾した[43]。一方、スロバはグリーンウェルが自宅で契約発表をしている最中、阪神の担当者と契約の細部を詰めていた[29]。阪神球団側は神戸にある家賃150万円の高級マンションを用意したが[44]、グリーンウェル側の希望(神戸市内のマンションで「3ベッドルーム」)に合致する物件がなかったため[29]、阪神球団側は2ベッドルームの2部屋をつなげる工事を行った[注 11][45]。また、同時に2月からの安芸キャンプを途中で離脱できる条項も付け加えられたが、『日刊スポーツ』記者の町田達彦は、この条項が後の騒動の火の元になったと回想している[45]。当時の阪神甲子園球場の電光掲示板の名前表示は6文字までだったことから登録名が注目されていたが、いったんは登録名は本人の希望通り「グリーンウェル」とし、甲子園での試合に限り「グリンウェル」と表記することで合意がなされたものの[42]、後に電光掲示板が改修され、「グリーンウェル」の7文字を表示できるようになった。
なお、1997年当時中日ドラゴンズの監督を務めていた星野仙一は、MLB時代のグリーンウェルのプレーを複数回ビデオで見たが、来日時は当時に比べて二周り太っており、キャンプもまともにできていなかったと評していた[20]。また星野は阪神監督時代の2002年に、かつて中日にもグリーンウェル側から獲得の打診が来たが、レッドソックスの副GMからグリーンウェルは背中に故障を抱えているという話を聞いたため、獲得を見送っており[注 12]、グリーンウェルは日本では成功できないだろうと考えていたという旨を述べた上で[47]、自分なら年俸3000万円も出さないような選手だったと回顧している[47][48]。
春季キャンプ・途中帰国
1997年1月29日に来日し、関西空港へ到着したが[45]、その際にテンガロンハット・ウエスタンブーツという、ド派手な姿だったため話題を呼んだ[25]。予定通り同年2月1日から安芸春季キャンプに合流[注 13]すると、打撃・守備練習とも精力的にこなしていたが、同月11日には副業の事務処理と、夫人との結婚記念日の祝いを理由に途中帰国した[49]。2月22日には再来日し、オープン戦にも出場する予定だったが[50]、その直前(2月20日)になって、スロバが阪神球団に対し「グリーンウェルはキャンプ中に背中を痛め、主治医から『3月5日まで旅行は控えるように』と診断されたため、再来日は遅れる」と伝達した[51]。一方的な伝達内容や、診断書などの不送達に対し、球団側はスロバに対する疑念を増加させる一方、渉外担当をグリーンウェルのもとに直接派遣させ、早期の再来日の言質をとることには成功する[52]。この負傷自体は事実であったが、阪神球団指定の医師による「軽症」の見立てに対し、グリーンウェルが自身の主治医から完治の告知をもらうことにこだわった上、治療法についても二転三転したため、明確な復帰時期がなかなか見いだせなかったのも、また事実であった[53]。しかし、スロバは「最大6週間のリハビリが復帰の絶対条件だ」と主張していたものの、グリーンウェル本人は「開幕は無理だが、4月下旬には戻りたい。(再来日したら)すぐにプレーしたい」と希望していた[52]。グリーンウェル本人が4月下旬の戦列合流を望んだ理由は、「日本では5月5日が『こどもの日』となっており、活躍を期待している子供たち(息子2人)を喜ばせるためにも、その日に間に合わせたい」というものだった[54]。
再来日から電撃引退
結局、主治医だけでなく、阪神が指定していたデトロイト・タイガースのチームドクターからも診察を受けて「軽症」との診断を受けた[53]。これを受け、グリーンウェルは基礎的なトレーニングやフリー打撃などを再開し、帰国から77日後の4月30日に再来日[53]。それまではキャンプ途中での帰国劇などから、チームおよびファンから「トラブルメーカー」と不安視されていたが、再来日後は阪神鳴尾浜球場[注 14]で精力的に打撃練習[注 15]に取り組んだ[55]。
そして、5月3日の対広島東洋カープ戦(阪神甲子園球場)で「5番・左翼手」としてNPB公式戦初出場を果たす[2]。1回裏に満塁で回ってきた打席では併殺打に倒れたが、3回二死一・二塁で[2]黒田博樹からNPB初安打[25](中前への先制適時打)を打ち、さらに8回には無死三塁の場面で右中間に三塁打を打った[2]。これにより、デビュー戦を決勝打を含む2安打、2打点の好成績で飾り、ゴールデンウィークで満員となっていた本拠地・甲子園を沸かせた[2]。その後、翌4日および「こどもの日」(5月5日)に甲子園で開かれた2試合でも計3安打(4日に2安打・5日に1安打)を打ち、3連戦で12打数5安打、5打点の成績を残した[56]。グリーンウェルの活躍により、阪神はこのカードを2勝1敗で終え、勝率5割に復帰することに成功したことで[57]、阪神ファンからは低迷していたチームの「救世主」と期待された[26]。しかし、その次のカードである対中日ドラゴンズ2連戦(5月7日・8日 / ナゴヤドーム)では一転して、7打数無安打と沈黙した[58]。
そして、5月10日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)を迎えた[12]。グリーンウェル本人はこの巨人戦を「レッドソックスでも、ヤンキースとの対戦は盛り上がったものさ」と闘志を燃やしていたが、第3打席まで3連続で凡退し[注 16]、第4打席で自打球を右足甲に当てて骨折してしまう[注 17][59]。グリーンウェル自身は、その時点では「骨折よりもスイングが問題だろう」と思っていた節があり、東京都内の病院で患部を検査しても異常は見られなかったため、翌5月11日の試合にも強行出場した[4]。しかし、この試合は4打数1安打に終わり、結果的に日本での最後の出場となった[4]。
5月11日には自打球を受けた右足の痛みが限界を超えたため、翌12日に対横浜ベイスターズ戦が予定されていた岡山[注 18]へ向かう新幹線には裸足で乗車した[60]。そして岡山市内の病院で診断を受けたところ、(11日に都内で検査を受けた際には見つからなかった)第2中足骨の骨折が判明する[61]。この検査結果を受けて、グリーンウェルは引退を決断。直ちに大阪に引き返して阪大病院で患部を固定した[62]。そして阪神球団社長の三好一彦と面会して引退を申し入れ、三好も「気持ちをくみたい」とこれを受理した[62]。
プロ野球選手の契約上の拘束期間は1年間のうち、2月から11月までの10か月とされ、年俸も10回に分けて支払われることが多いとされるが、阪神は最終的に、年俸300万ドル(必ず支払われる基本給200万ドル+出来高払い100万ドル)の2年契約を結んでいたグリーンウェルに対し、1997年シーズンの基本給200万ドルのうち、実働した2月から5月までの4か月分と、残る6か月分(6月から拘束期間が切れる11月まで)のうち半分となる3か月分の金額、すなわち200万ドルの7割となる140万ドル+契約金50万ドルの総額190万ドル(当時の為替レートで約2億1500万円)を支払っており、球団側からの解雇通告ではなく本人の側から退団を申し入れたため、当初契約に盛り込まれていた出来高払い部分と「バイアウト」は支払われなかったと報じられている[20]。三好はグリーンウェルの退団にあたり、支払金の内容については具体的な額については言及しなかったが、「双方納得できる金額で、リーズナブルなもの」と証言しており[20]、2年契約ではあるが翌1998年分の年俸は支払われなかったとも報じられている[41]。また、グリーンウェル本人は後年にテレビ番組(2019年7月7日放送のフジテレビ『ジャンクSPORTS』)の取材で「契約金の返還も申し出たが、当時の阪神オーナーである久万俊二郎の配慮で返金は無くなった」と明かしている[63][64]。
5月14日に引退会見を開き[65]、「野球を辞めろという神のお告げがあった」と発言した[8][23][66]。また退団を決意した理由などについては、「治っても復帰は6月。球団が次の手を打ちにくくなるし、これ以上迷惑をかけられない」[41]「自分の野球人生は恵まれていた。阪神ファンには申し訳ないが、最後にいい球団(阪神)でプレーできて光栄だ」[10]「金のために野球をしているのではなく、名誉や誇りのためだ」「野球の指導者(コーチや監督など)はやるつもりはないが、2人の子供は野球が好きなので、一緒に楽しみたい」と述べ[65]、翌15日に帰国した[8]。
このような経緯で退団したグリーンウェルや、同年に千葉ロッテマリーンズに年俸1億7000万円で入団しながら打率.270前後と期待外れに終わったマーク・キャリオンの失敗は、同年に他球団がそれぞれ年俸1億円未満で獲得したドゥエイン・ホージー(ヤクルトスワローズ)、ドミンゴ・マルティネス(西武)、フィル・クラーク(近鉄)の成功と対照的に評された[67]。吉田は「実際活躍してくれたのは7試合だったから、あっという間の出来事でした」「なんや、嵐のように来て、嵐のように去って行きましたなぁ…」と述べている[68]。試合に出た時期から「GreenWellじゃなくてGoldenWeekだ」等と揶揄された。阪神ファンからはグリーンウェル本人のみならず、高額年俸で契約した球団へも罵声が浴びせられた[69]。
引退後
引退後、「農場を経営する」「これからは家族のために頑張る」等と話していた。その後はフロリダに甲子園球場の20倍もの広大な「マイク・グリーンウェルズ・ファミリー・ファン・パーク」という遊園地を建設し、オーナーとなっていたが、後年に(日本円にして)2億円以上で売却し、現在は大規模牧場を経営している[64]。2001年にはシンシナティ・レッズ傘下のAA級球団であるチャタヌーガの打撃コーチに就任、同年2月22日付のシンシナティの地元新聞では近く選手兼任コーチとして契約を結ぶ予定であり、現役復帰を目指してレッズのキャンプで練習を開始したと報じられた[70]。
また2005年には、ステロイド剤の使用を告白したホセ・カンセコに対して「彼のせいで、1988年に自分がMVPになれなかった」と非難し、「ステロイド使用の選手はMVPから除外すべきだ」等と主張した記事で久々に日本のメディアに登場した。カンセコとグリーンウェルは1995年から1996年までレッドソックスで一緒にプレーしている。
元々カーレースが大好きで、北東部のレースイベントに足繁く通っていたほか、レッドソックスの同僚にも「布教」していた。2000年から北米で最も人気のあるカーレース分野のストックカーレースへ参戦を開始[71]。2006年はNASCAR3大シリーズの一つであるクラフツマン・トラック・シリーズにグリーンライツレーシングの一員として、シボレーのマシンで2戦にスポット参戦した(それぞれ26位と33位で完走)。ただし子供のために故郷を離れることを良しとしなかったこともあり、メジャーレース参戦はこれ限りであった。2010年にレーサーとしても引退した。
2008年2月25日、ボストン・レッドソックスのチーム殿堂入りが発表された。
2022年、リー郡評議会に欠員が出たため、ロン・デサンティスフロリダ州知事により同議会議員に任命された。2024年の選挙で共和党の候補[72]として再選したが、2025年10月9日に甲状腺髄様癌によりボストンのマサチューセッツ総合病院で死去した[73][74]。
選手としての特徴
MLB通算打率は3割を超えていた[17]。1996年はレッドソックスで五番打者を担い、三番打者のモー・ボーンや四番打者のホセ・カンセコとともにクリーンアップを組んでおり、アメリカンリーグ屈指のクリーンアップであると評されていた[16]。レッドソックスの本拠地であるフェンウェイ・パークは左翼に「グリーンモンスター」と呼ばれる高いフェンスがあるが、グリーンウェルはそのような環境で二塁打や三塁打を量産しており、長打力だけでなく俊足巧打も持ち味と評されていた[16]。阪神入団当初は四番打者候補と目されていたが、『サンケイスポーツ』は大砲というより中距離打者であり、首位打者が狙えると評していた[15]。一方、MLBでも屈指の初球打ちの癖があった[15]。
また1996年は得点圏打率.333と勝負強さも見せ[43]、通算満塁打率は4割以上[15]、5割近いと評されていた[16]。MLBではランニング満塁本塁打を2本記録している[15]。
1996年は右投手相手に打率.276(214打数59安打)だった一方、左投手相手には打率.346(81打数28安打)と高打率を残していた[43]。
守備面でも名手と評され、レッドソックスではテッド・ウィリアムズ、カール・ヤストレムスキー、ジム・ライスに続く左翼手のレギュラー[注 19]となっていた[17]。この球場が開場してから60年近く経過した1996年時点で、レッドソックスの左翼手は生え抜きのスター選手しか守れない「聖地」であると評されていた[15]。
人物
1996年までレッドソックス一筋で、地元ボストンのファンからの人気が高く[16]、投手のロジャー・クレメンスとともにミスター・レッドソックスと呼ばれていた[17]。このような実績の持ち主だったため、1996年時点ではフォートマイヤーズで「この町最大の人気者」と評され[18]、阪神移籍時は日本のマスメディアだけでなく、現地のテレビ局も4大ネットワーク (ABC・NBC・CBS・FOX) の系列局すべてがグリーンウェル宅へ取材に訪れていた[75]。
趣味はハンティングと釣り[16]。フロリダ州にあった自宅は母屋が800平方メートル、敷地面積は200エーカー(81万平方メートル、阪神甲子園球場20個分)[注 20]あり、敷地内の牧場では50頭の牛や3頭の馬が飼われ、また湧き水の池やグレープフルーツ園もある一方、体長4メートルに達する野生のワニが生息する密林もあった[75]。本人はこの広大な土地について、「自分の若いころからの夢だった」と語っており[21]、グレープフルーツなどの果実は牛の餌として育てていたという[42]。自宅敷地で狩猟をすることもあり、七面鳥がよく捕れたという[75]。このように自宅敷地が非常に広大であることから、阪神入団発表時には記者たちを大型バギーに同乗させて案内していた[42]。またこのように自然が豊かな環境で育ったことから、本人は「カントリーボーイ」(田舎者)を自称しており、1994年にこの自宅を建設したという[18]。また、地元であるフォートマイヤーズ郊外には自身の名を冠した遊園地「マイク・グリーンウェルズ・ファン・パーク」があり、ゴーカートやミニゴルフなどの遊戯施設があったほか、Tシャツやトレーナーなどのオリジナルグッズも販売されており[75]、街の観光スポットの一つになっていた[21]。ストックカーレースを「趣味であり、ビジネスでもある」と位置づけ、知人との共同名義でレーシングチーム「グリーンウェル・クライン・レーシング」を所有、マイク・ハビスをドライバーにノースカロライナ州周辺で開催されていた「フーターズ・カップ」に参戦していた[75]。
家族は妻と息子2人[16]。
阪神入団当時は戦力としてだけでなく、その豊富な実績から桧山進次郎や新庄剛志といった「将来の四番候補」と目されていた選手たちにとって「生きた教科書」としての役割も期待されていた[76]。その背景にあった事情の一つに、グリーンウェル獲得時点の阪神監督だった吉田義男が初めて阪神の監督に就任した1975年に在籍していたジョージ・アルトマンが田淵幸一や掛布雅之に教訓を与え、後に彼らが主砲へと成長するきっかけになったという過去があった[17]。
詳細情報
年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1985 | BOS | 17 | 34 | 31 | 7 | 10 | 1 | 0 | 4 | 23 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 4 | 0 | .323 | .382 | .742 | 1.124 |
| 1986 | 31 | 40 | 35 | 4 | 11 | 2 | 0 | 0 | 13 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 7 | 1 | .314 | .400 | .371 | .771 | |
| 1987 | 125 | 456 | 412 | 71 | 135 | 31 | 6 | 19 | 235 | 89 | 5 | 4 | 0 | 3 | 35 | 1 | 6 | 40 | 7 | .328 | .386 | .570 | .956 | |
| 1988 | 158 | 693 | 590 | 86 | 192 | 39 | 8 | 22 | 313 | 119 | 16 | 8 | 0 | 7 | 87 | 18 | 9 | 38 | 11 | .325 | .416 | .531 | .946 | |
| 1989 | 145 | 641 | 578 | 87 | 178 | 36 | 0 | 14 | 256 | 95 | 13 | 5 | 0 | 4 | 56 | 15 | 3 | 44 | 21 | .308 | .370 | .443 | .813 | |
| 1990 | 159 | 682 | 610 | 71 | 181 | 30 | 6 | 14 | 265 | 73 | 8 | 7 | 0 | 3 | 65 | 12 | 4 | 43 | 19 | .297 | .367 | .434 | .801 | |
| 1991 | 147 | 598 | 544 | 76 | 163 | 26 | 6 | 9 | 228 | 83 | 15 | 5 | 1 | 7 | 43 | 6 | 3 | 35 | 11 | .300 | .350 | .419 | .769 | |
| 1992 | 49 | 202 | 180 | 16 | 42 | 2 | 0 | 2 | 50 | 18 | 2 | 3 | 0 | 2 | 18 | 1 | 2 | 19 | 8 | .233 | .307 | .278 | .585 | |
| 1993 | 146 | 603 | 540 | 77 | 170 | 38 | 6 | 13 | 259 | 72 | 5 | 4 | 2 | 3 | 54 | 12 | 4 | 46 | 17 | .315 | .379 | .480 | .859 | |
| 1994 | 95 | 374 | 327 | 60 | 88 | 25 | 1 | 11 | 148 | 45 | 2 | 2 | 0 | 5 | 38 | 6 | 4 | 26 | 12 | .269 | .348 | .453 | .800 | |
| 1995 | 120 | 525 | 481 | 67 | 143 | 25 | 4 | 15 | 221 | 76 | 9 | 5 | 0 | 4 | 38 | 4 | 2 | 35 | 18 | .297 | .349 | .459 | .808 | |
| 1996 | 77 | 318 | 295 | 35 | 87 | 20 | 1 | 7 | 130 | 44 | 4 | 0 | 0 | 3 | 18 | 3 | 2 | 27 | 11 | .295 | .336 | .441 | .777 | |
| 1997 | 阪神 | 7 | 29 | 26 | 2 | 6 | 1 | 1 | 0 | 9 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 4 | .231 | .310 | .346 | .656 |
| MLB:12年 | 1269 | 5166 | 4623 | 657 | 1400 | 275 | 38 | 130 | 2141 | 726 | 80 | 43 | 3 | 41 | 460 | 79 | 39 | 364 | 136 | .303 | .368 | .463 | .831 | |
| NPB:1年 | 7 | 29 | 26 | 2 | 6 | 1 | 1 | 0 | 9 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 4 | .231 | .310 | .346 | .656 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
- 捕手守備
| 年 度 |
球 団 |
捕手(C) | ||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
捕 逸 |
企 図 数 |
許 盗 塁 |
盗 塁 刺 |
阻 止 率 |
||
| 1987 | BOS | 1 | 3 | 0 | 1 | 0 | .750 | 0 | 2 | 2 | 0 | .000 |
| MLB | 1 | 3 | 0 | 1 | 0 | .750 | 0 | 2 | 2 | 0 | .000 | |
- 外野守備(MLB)
| 年 度 |
球 団 |
左翼(LF) | 中堅(CF) | 右翼(RF) | |||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
||
| 1985 | BOS | 16 | 13 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | - | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |||||
| 1986 | 8 | 11 | 1 | 0 | 1 | 1.000 | - | 7 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | ||||||
| 1987 | 64 | 119 | 7 | 4 | 0 | .969 | - | 28 | 42 | 1 | 1 | 0 | .977 | ||||||
| 1988 | 143 | 292 | 6 | 4 | 2 | .987 | - | 8 | 13 | 0 | 2 | 0 | .867 | ||||||
| 1989 | 139 | 221 | 11 | 8 | 1 | .967 | - | - | |||||||||||
| 1990 | 159 | 288 | 12 | 7 | 1 | .977 | - | - | |||||||||||
| 1991 | 143 | 263 | 9 | 3 | 3 | .989 | - | - | |||||||||||
| 1992 | 41 | 85 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | - | - | |||||||||||
| 1993 | 134 | 262 | 6 | 1 | 1 | .996 | - | - | |||||||||||
| 1994 | 84 | 141 | 10 | 1 | 3 | .993 | - | - | |||||||||||
| 1995 | 118 | 198 | 11 | 6 | 1 | .972 | - | - | |||||||||||
| 1996 | 75 | 138 | 9 | 4 | 2 | .974 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | |
| MLB | 1124 | 2031 | 83 | 38 | 15 | .982 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 47 | 62 | 1 | 3 | 0 | .955 | |
- 外野守備(NPB)
| 年 度 |
球 団 |
外野 | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
||
| 1997 | 阪神 | 7 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
| NPB | 7 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
- MLB
- シルバースラッガー賞(外野手部門):1回(1988年)
記録
- MLB
- MLBオールスターゲーム選出:2回 (1988年、1989年)
- サイクル安打:1回(1988年9月14日、対ボルチモア・オリオールズ戦、フェンウェイ・パーク)
- NPB
背番号
- 39(1985年 - 1997年)
脚注
注釈
- ^ 打率・打点ともア・リーグ3位。
- ^ 当時は表彰タイトルだった。
- ^ 12.70打数に1三振で、現在のMLBで三振が少ないことで知られるイチローでも、2013年までに9.82打数で1三振(8605打数876三振)である。また、イチローの四球は544である。
- ^ 吉田は1996年10月に阪神への監督復帰が決定していた[24]。
- ^ 「ジョー・スローバー」とも表記される[26]。
- ^ このことを踏まえ[27]、ダイエー球団代表・瀬戸山隆三は『デイリースポーツ』記者からの取材に対し、「阪神は(スロバに)騙されている」と発言していた(同紙1997年3月10日付の紙面掲載)[28]。
- ^ 町田達彦(『日刊スポーツ』記者)は、近鉄がグリーンウェルの獲得を断念した理由について「グリーンウェルの代理人がスロバだったことに対し、近鉄球団が不信感を抱いたため」と推測している[30]。結局、近鉄は新外国人としてクラーク(推定年俸5500万円)を獲得した[31]が、クラークは1997年から1999年と3年連続でベストナイン(1997年・1998年は一塁手、1999年は指名打者)に選出されている。
- ^ グリーンウェルの獲得競争に参戦していた西武は、同年オフにマルティネス(推定年俸8000万円)を獲得した[31]が、マルティネスは1997年にパ・リーグのベストナイン(指名打者)に選出された。また、西武はマルティネスの在籍中(1997年 - 1998年)にパ・リーグ2連覇を達成している。
- ^ 結局、広沢は1999年10月に巨人から戦力外通告を受け[34]、自由契約となった同年オフに阪神へ移籍した。
- ^ それまでは1994年に在籍したロブ・ディアーの2億7000万円が最高年俸だった[18]。
- ^ 本来の部屋に加え、隣室も借りて2部屋の間の壁を取り払う工事[44]。「本人と家族、日本に来るゲストのために」と考えたスロバの要求によるものであった[45]。
- ^ 結局、中日は阪神がグリーンウェルを獲得した1996年オフ(同年12月18日)にレオ・ゴメスを獲得したが[46]、そのゴメスは1997年から2002年の在籍6年間で153本塁打(1997年・1999年には年間30本塁打以上)を記録し、1997年・1999年にはセ・リーグのベストナイン(三塁手)に選出された。
- ^ 安芸春季キャンプ合流後、セ・リーグ他球団のスコアラーはグリーンウェルの視察を早めに開始したが、これは契約中の途中離脱事項が公になっていたからであった[49]。
- ^ 阪神二軍(ウエスタン・リーグ)の本拠地。
- ^ 再来日前に球団に対し、左腕の打撃投手を相手に打撃練習を行うことを希望していた[53]。
- ^ ヘッドコーチの一枝修平が「悪循環にはまっている」と指摘するほど調子を落としていた[4]。
- ^ 自打球を当てた後、体勢を崩しながらかろうじて走ったが、遊ゴロ併殺に終わる[4]。
- ^ 同日は倉敷マスカットスタジアムで対横浜戦が予定されていたが、中止になった。
- ^ グリーンウェルはウィリアムズ、ヤストレムスキーに次ぐ3人目の左翼手のレギュラーだったと評する報道もある[15]。
- ^ 1000エーカー(約123万坪、甲子園球場102個分)とする報道もあるが[18]、本人は200エーカー程度であると語っている[21]。
出典
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参考文献
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- 『日刊スポーツ』2014年12月22日大阪版「猛虎の80年 激震…グリーンウェル・1」(日刊スポーツ新聞西日本)
- 『日刊スポーツ』2014年12月23日大阪版第7版3頁「猛虎の80年 激震…グリーンウェル・2」(日刊スポーツ新聞西日本)
- 『日刊スポーツ』2014年12月24日大阪版第7版4頁「猛虎の80年 激震…グリーンウェル・3」(日刊スポーツ新聞西日本)
- 『日刊スポーツ』2014年12月25日大阪版第7版7頁「猛虎の80年 激震…グリーンウェル・4」(日刊スポーツ新聞西日本)
- 『日刊スポーツ』2014年12月26日大阪版第7版7頁「猛虎の80年 激震…グリーンウェル・5」(日刊スポーツ新聞西日本)
- 『日刊スポーツ』2014年12月27日大阪版第7版3頁「猛虎の80年 激震…グリーンウェル・6」(日刊スポーツ新聞西日本)
- 『日刊スポーツ』2014年12月28日大阪版第7版3頁「猛虎の80年 激震…グリーンウェル・7」(日刊スポーツ新聞西日本)
関連項目
- メジャーリーグベースボールの選手一覧 G
- カリフォルニア州出身の人物一覧
- 阪神タイガースの選手一覧
- ナイツ (お笑いコンビ)-野球を題材にした漫才のネタに登場し、阪神時代のエピソードを取り上げている。
外部リンク
固有名詞の分類
| アメリカ合衆国の野球選手 |
J.R.リチャード レジー・ジェファーソン マイク・グリーンウェル ロス・ヤングス ハワード・ジョンソン |
| 阪神タイガース及びその前身球団の選手 |
町田公二郎 本間勝 マイク・グリーンウェル 金本知憲 岡部憲章 |
| ボストン・レッドソックスの選手 |
ジョン・ラッキー レジー・ジェファーソン マイク・グリーンウェル トム・ハウス ディック・スチュアート |
| アメリカ合衆国のドライバー |
ロジャー安川 マット・ケンゼス マイク・グリーンウェル デイル・アーンハート・ジュニア A.J.フォイト |
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