第2次世界大戦終戦後から死、その後
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「牧幹夫」の記事における「第2次世界大戦終戦後から死、その後」の解説
第2次世界大戦の終結後、橘は牧の行方を探した。赤十字を通じて捜索を続けたものの、インドにはおらず、抑留されてシンガポールにいたことが後に判明した。牧はその後インドに戻って領事館での仕事を得て働き、インドの舞踊、建築、絵画などさまざまな芸術や文化について研究を続けた。インドでは大野弘史、和井内恭子、花柳徳兵衛など、その地を訪れた日本人旅行者の世話をよくしていたという。 1949年10月、橘は娘の芸名を「牧 阿佐美」と改めた。これは実父である牧の芸名から採ったと同時に、芸術教育は橘、芸術活動は牧と分けることを考えてのことであった。阿佐美は「私のなかに牧幹夫の芸術的な天分が流れ続けることを願ったのかもしれません」と回想し、「母はこの段階で、橘バレエ学校と牧バレエ団の二本立てという将来のヴィジョンを、はっきりと打ち出したのです」と記述している。 1951年1月に新橋演舞場で初演された『運命』は、ベートーヴェンの第5交響曲をバレエ化した作品だった。この作品にかける橘の熱意は大変なものであった。具体的なストーリーのないシンフォニック・バレエといっても抽象的な主題はあり、中心を踊った橘と阿佐美の母子が、時には別れ、時には対立しながら運命を自らの力で切り開いていくというテーマであった。『運命』が上演される前、「父を訪ねて三千里」という見出しの新聞号外が出て、阿佐美を驚かせた。その内容は、「今度デビューする牧阿佐美というダンサーの父は、戦争前にインドへ渡航したまま帰国できずにいる。そのような悲劇を背負ったダンサーが『運命』というバレエを踊るのだ」というものであった。阿佐美はこの号外について「いま考えてみると、あるいは母がそういう号外が出るように働きかけたのかもしれません」と述懐している。5日間の公演は連日満員で立ち見の客まで出る大入りとなり、評判も上々であった。『運命』は後に、昭和34年度の芸術選奨文部大臣賞を受賞している。 1967年、60歳になった橘は紫綬褒章を受章した。ただし、この頃から健康の衰えが著しくなってきていた。1969年1月の『飛鳥物語』(片岡良和作曲)は「橘秋子バレエ生活四十周年」記念公演として開催されたが、その直後に橘は倒れて1月14日に入院した。それ以後は、入退院と療養の日々を過ごすことになった。医者からは「もう一、二年の命」と宣告され、阿佐美は覚悟を決めて母の代わりに学校についての全責任を負うことにした。バレエ団運営などのために生じた負債を当時吉祥寺にあった橘バレエ学校の校舎を売却して返済し、代わりに渋谷区富ヶ谷に小規模な新校舎を建築し、1970年10月に落成した。一時退院した橘は、落成後の新校舎に移っている。 新校舎の建設中に、外務省から連絡があった。それは、牧の国籍について問い合わせるものであった。しかもその連絡には、牧がすでに危篤状態にあるという知らせも含まれていた。最初のうち阿佐美は、医師からの余命宣告を念頭に置いた上で橘の健康状態を気づかい、インドに行かないと言ったが、橘は「私のことは大丈夫。あなたがいま行かなかったら、もう二度とパパに会えないと思う。何があっても行きなさい」と強く勧めた。阿佐美は母のことを心配しつつ、その勧めを受け入れてインドへと向かった。 阿佐美がボンベイで父との再会を果たしたとき、牧は腸閉塞の手術後の経過が悪く、既にやせ細っていてほとんど口もきけない状態であった。阿佐美に分かったのは「みんなで一緒に家に帰ろう」というその言葉だけであった。阿佐美はその日一日父に付き添い、ずっと手を握っていた。牧の枕元には、日本の新聞がいっぱい置かれていた。それは、阿佐美がどこで踊ったかという情報を入手するためであった。阿佐美が「パパが元気になるまで私は居るから、元気になったら一緒に帰りましょう」と声をかけると、牧は「鉛筆と紙をくれ」という意味のことを言ったが、付添いの女性がそれを止めた。阿佐美は領事館の職員に依頼して父に点滴を打ってもらい、一度病院を辞した。本当は病院に泊まり込んで付き添いを続けたいという思いがあったが、規則でそれは禁じられていた。 翌朝、宿泊先で目を覚ますと阿佐美の枕元に置いていた真珠の首飾りがばらばらに切れていた。不吉な思いに駆られた阿佐美は一刻も早く父のもとに向かおうとしたが、バスもタクシーもないなど簡単には病院に到着できなかった。ようやく病院に到着すると、牧の意識はなく、手も殆ど冷たい状態であった。阿佐美に対して「夜中にチャミ、チャミと言っていたけど、チャミって何だ?」と問いかけがあった。「チャミ」は幼時からの阿佐美の愛称だったので、彼女は父が自分の名を呼んでいたに違いないと思い当たった。間もなく阿佐美の目前で、牧は息絶えた。 牧の遺骨は、阿佐美が持ち帰ることになった。阿佐美は病床にある橘に牧の死の知らせを伝えていいものか迷ったが、橘の友人がそれとなく知らせてくれたため、その後に遺骨を橘のもとに持って行った。橘は阿佐美に「ああ、ご苦労さま、大変だったわね」と言っただけで気丈にふるまっていたが、しばらくすると「パパのお骨なんか抱いて帰って来させて、あなたにはほんとうに可哀想なことをしてしまった」と涙を見せた。その後も、橘は夜中になると牧の遺骨を抱いて泣く日々が続いていたという。牧の遺骨を日本に持ち帰ってから最初の公演となった1970年9月の牧阿佐美バレヱ団定期公演は、1959年に芸術選奨文部大臣賞を受賞した『運命』の再演であった。橘はプログラムに「過日、皆様のお耳を煩わした牧幹夫に、この一作を捧げさせていただきます」という追悼の文を掲載した。 1971年5月14日、橘秋子は死去した。阿佐美は母の仕事を受け継いで芸術教育と舞台活動に打ち込み続けた。後に阿佐美は新国立劇場バレエ団で、『ラ・バヤデール』(L・ミンクス作曲、M・プティパ原振付、1877年初演)の新演出を手がけた。空想上の古代インドを舞台にして勇敢な戦士ソロルと寺院に仕える舞姫ニキヤの悲恋を描いたこの作品から、阿佐美はインドだけではなくアフリカや中近東をも混同したような荒唐無稽さを排し、「古代インドの『シャクンタラー』の世界を今日の目でどのように表現するか」に意を尽くして演出や振付、舞台装置などに至るまで細やかに配慮した。阿佐美自身も『ラ・バヤデール』のプログラムでインドで長年過ごしてきた父のことに言及し、「今回の『ラ・バヤデール』に私を導いていたのかもしれません」と記している。
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