第2次世界大戦終戦後から死、その後とは? わかりやすく解説

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第2次世界大戦終戦後から死、その後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/03 00:26 UTC 版)

牧幹夫」の記事における「第2次世界大戦終戦後から死、その後」の解説

第2次世界大戦終結後は牧の行方探した赤十字通じて捜索続けたものの、インドはおらず抑留されシンガポールにいたことが後に判明した。牧はその後インド戻って領事館での仕事得て働きインド舞踊建築絵画などさまざまな芸術文化について研究続けたインドでは大野弘史、和井内恭子花柳徳兵衛など、その地を訪れた日本人旅行者世話よくしていたという。 1949年10月は娘の芸名を「牧 阿佐美」と改めた。これは実父である牧の芸名から採ったと同時に芸術教育芸術活動は牧と分けることを考えてのことであった阿佐美は「私のなかに牧幹夫芸術的な天分流れ続けることを願ったのかもしれません」と回想し、「母はこの段階で、バレエ学校と牧バレエ団二本立てという将来ヴィジョンを、はっきりと打ち出したのです」と記述している。 1951年1月新橋演舞場初演された『運命』は、ベートーヴェンの第5交響曲バレエ化した作品だった。この作品にかける熱意大変なものであった具体的なストーリーのないシンフォニック・バレエといって抽象的な主題はあり、中心踊った阿佐美母子が、時には別れ時には対立しながら運命を自らの力で切り開いていくというテーマであった。『運命』が上演される前、「父を訪ねて三千里」という見出し新聞号外出て阿佐美驚かせた。その内容は、「今度デビューする牧阿佐美というダンサーの父は、戦争前インド渡航したまま帰国できずにいる。そのような悲劇背負ったダンサーが『運命』というバレエを踊るのだ」というものであった阿佐美はこの号外について「いま考えてみると、あるいは母がそういう号外が出るように働きかけたのかもしれません」と述懐している。5日間の公演連日満員立ち見の客まで出る大入りとなり、評判上々であった。『運命』は後に、昭和34年度の芸術選奨文部大臣賞受賞している。 1967年60歳になった紫綬褒章受章した。ただし、この頃から健康の衰え著しくなってきていた。1969年1月『飛鳥物語』片岡良和作曲)は「橘秋子バレエ生活四十周年記念公演として開催されたが、その直後倒れて1月14日入院した。それ以後は、入退院と療養日々を過ごすことになった医者からは「もう一、二年の命」と宣告され阿佐美覚悟決めて母の代わりに学校についての全責任を負うことにした。バレエ団運営などのために生じた負債当時吉祥寺にあったバレエ学校校舎売却して返済し代わりに渋谷区富ヶ谷小規模な新校舎建築し1970年10月落成した一時退院したは、落成後新校舎移っている。 新校舎建設中に、外務省から連絡があった。それは、牧の国籍について問い合わせるものであった。しかもその連絡には、牧がすでに危篤状態にあるという知らせ含まれていた。最初のうち阿佐美は、医師からの余命宣告念頭に置いた上で健康状態気づかいインド行かないと言ったが、は「私のことは大丈夫。あなたがいま行なかったらもう二度とパパ会えないと思う。何があっても行きなさい」と強く勧めた阿佐美は母のことを心配しつつ、その勧め受け入れてインドへと向かった阿佐美ボンベイで父との再会果たしたとき、牧は腸閉塞の手術後経過悪く、既にやせ細っていてほとんど口もきけない状態であった阿佐美分かったのは「みんなで一緒に家に帰ろう」というその言葉だけであった阿佐美その日一日父に付き添い、ずっと手を握っていた。牧の枕元には、日本の新聞いっぱい置かれていた。それは、阿佐美がどこで踊ったかという情報入手するためであった阿佐美が「パパ元気になるまで私は居るから、元気になったら一緒に帰りましょう」と声をかけると、牧は「鉛筆紙をくれ」という意味のことを言ったが、付添い女性がそれを止めた阿佐美領事館職員依頼して父に点滴打ってもらい、一度病院辞した本当病院泊まり込んで付き添い続けたいという思いがあったが、規則でそれは禁じられていた。 翌朝宿泊先目を覚ます阿佐美枕元置いていた真珠の首飾りがばらばらに切れていた。不吉な思い駆られた阿佐美一刻も早く父のもとに向かおうとしたが、バスタクシーもないなど簡単に病院到着できなかった。ようやく病院到着すると、牧の意識はなく、手も殆ど冷たい状態であった阿佐美に対して夜中チャミチャミと言っていたけど、チャミって何だ?」と問いかけがあった。「チャミ」は幼時からの阿佐美愛称だったので、彼女は父が自分の名を呼んでいたに違いない思い当たった間もなく阿佐美目前で、牧は息絶えた。 牧の遺骨は、阿佐美持ち帰ることになった阿佐美病床にあるに牧の死の知らせ伝えていいものか迷ったが、友人それとなく知らせてくれたため、その後遺骨のもとに持って行った阿佐美に「ああ、ご苦労さま大変だったわね」と言っただけで気丈にふるまっていたが、しばらくすると「パパお骨なんか抱いて帰って来させて、あなたにほんとうに可哀想なことをしてしまった」と涙を見せたその後も、夜中になると牧の遺骨抱いて泣く日々続いていたという。牧の遺骨日本持ち帰ってから最初公演となった1970年9月牧阿佐美バレヱ団定期公演は、1959年芸術選奨文部大臣賞受賞した運命』の再演であったプログラムに「過日皆様のお耳を煩わした牧幹夫に、この一作捧げさせていただきます」という追悼の文を掲載した1971年5月14日橘秋子死去した阿佐美は母の仕事受け継いで芸術教育舞台活動打ち込み続けた。後に阿佐美新国立劇場バレエ団で、『ラ・バヤデール』(L・ミンクス作曲、M・プティパ振付1877年初演)の新演出を手がけた。空想上古代インド舞台にして勇敢な戦士ソロル寺院仕え舞姫ニキヤの悲恋描いたこの作品から、阿佐美インドだけではなくアフリカ中近東をも混同したような荒唐無稽さを排し、「古代インドの『シャクンタラー』の世界今日の目でどのように表現するか」に意を尽くして演出振付舞台装置などに至るまで細やかに配慮した阿佐美自身も『ラ・バヤデール』のプログラムインド長年過ごしてきた父のことに言及し、「今回の『ラ・バヤデール』に私を導いていたのかもしれません」と記している。

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