楽天監督時代
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2015年10月8日、成績不振のため辞任した大久保博元の後任として、東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍監督に就任することが発表された。背番号は、自身の希望により野球日本代表の野手総合コーチと同じ「99」。 2016年5月17日のオリックス戦で遅延行為により自身3度目の退場処分を受けた。9月6日の埼玉西武ライオンズ戦に7-4で勝利し、NPB史上19人目、監督勝利通算700勝を達成した。試合後、記念プレート贈呈セレモニーとファンへの感謝の言葉を述べた。記念のウイニングボールは、試合終了時のバッテリー松井裕樹-嶋基宏からサイン入りでプレゼントされた。この年は序盤は一時首位に立ち交流戦でも勝ち越すなど好調だったものの後半に失速し、3年ぶりに最下位を脱出したものの5位に終わった。一方で球団創設から前年の2015年まで年間対戦成績で一度も勝ち越しがなかった西武に初めて勝ち越した。 2017年は外国人選手を軸にした攻撃的な打線で8月上旬まで首位を独走したが、後半戦で6連敗、10連敗と大型連敗で順位を落とすも球団初の3位入りを果たした。就任2年目でAクラス入りを果たしたのは梨田が初である。CSでは西武を2勝1敗でファーストステージを突破するも、ファイナルステージではソフトバンクに2勝4敗で敗退。 2018年は日本ハム時代同様、浜田高校の後輩にあたる清水雅治を一軍外野守備走塁コーチで招いた。5月25日、福岡ソフトバンクホークス戦で勝利し、監督勝利通算800勝を達成した。しかし、開幕から低迷し、6月16日の阪神戦の敗戦後に成績不振(21勝41敗1分、最下位)を理由に監督を辞任。
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楽天監督時代
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2010年5月10日より、自ら初のラジオパーソナリティ番組『星野仙一の熱血・仙一夜』がMBSラジオにて放送される。 2010年10月、東北楽天ゴールデンイーグルスが次期監督として交渉すると報じられ、同19日に阪神SDの辞任と退団を発表した。その後、同27日に宮城県仙台市内で正式に楽天監督の就任会見を行った。選手・監督通じて初めてパシフィック・リーグ加盟球団に所属することとなった。背番号は中日、阪神監督時代と同じ「77」。ヘッド兼打撃コーチに再び田淵を招き、バッテリーコーチには大学の後輩三輪隆、二軍コーチに仁村薫、関川、種田仁を招聘した。メジャーリーグ経験者の岩村明憲や松井稼頭央を獲得。 初年度となった2011年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で、本拠地・クリネックススタジアム宮城(Kスタ宮城)が損壊したこともあり、公式戦開幕が2週間延期され、開幕当初は代替で阪神甲子園球場など関西地方でホーム試合を行なっていた。成績は仙台に戻ってからの5月以降に本拠地で5連敗するなど下降し、8月には7連敗で5位まで落ち込むが、同月後半には逆に7連勝するなどあって一時は3位に浮上し、オリックス、西武とのクライマックスシリーズ進出争いに加わったが、最終的には3位西武と3ゲーム差の5位に終わる。楽天の監督として日本野球機構の関係者に嘆願し、震災復興を名目としたこの年のオールスター第3戦がKスタ宮城で開催されることになった。オフには創設当初から4番としてチームを牽引してきた山崎武司に星野自ら戦力外通告を行い退団させた。この年の山崎は故障で離脱し、2004年以来7年ぶりに規定打席を逃したものの統一球が導入され本塁打が減少する中でチームトップの11本塁打を打っていたが若返りを図るために戦力外を通告した。またフロントで福田功、スカウトで早川実、二軍打撃コーチに田代富雄を招聘した。 2012年5月11日、対オリックス7回戦(京セラドーム)において、投手出身監督、及び戦後生まれの監督としては初となる監督通算1000勝(876敗42分、2012年5月11日当時)を達成した。2004年の王貞治以来、史上12人目の記録となった。ちなみに翌12日も勝利し、自身の名「仙一」と同じ1001勝目となった際、「おーっ、2000勝まであと999勝か」とコメントして報道陣を笑わせた。戦力外にした山崎、メジャーリーグに移籍した岩隈久志の退団に加え、前半戦は田中将大、松井稼頭央、嶋基宏、ルイス・ガルシアら主力の離脱が目立ち戦力低下が不安視されていた。しかし、釜田佳直、辛島航、枡田慎太郎、銀次などの生え抜きの若手を抜擢、リリーフだった美馬学を先発に転向させるなど、徐々に頭角を現す。これらの若手選手は「星野チルドレン」とも呼ばれた。5月20日、福岡ソフトバンクホークスと入れ替わりで3位に浮上。その後も上位争いを続け、7月18日に球団創設8年目で初の前半戦を勝率5割以上、Aクラスターン入りの3位で終えた。後半戦は復帰したベテランが不調で引き分けを挟み、8連敗で5位に転落。8月中旬の西武戦では開幕戦以来となる同一カード3連敗を喫した。しかし9月に入ると勢いを取り戻し、7日からの西武戦で3連勝して4位に浮上。最終的に3位ソフトバンクと1ゲーム差の4位となった。最終戦に勝利し、勝率はちょうど5割となった。同年をもってヘッドコーチの田淵は解任されたが、田淵は「楽天にオーナーと仲良くてデーブ大久保が来て、俺は彼に書き回された。」と述べている。 2013年、前年オフに星野がオーナーの三木谷浩史に食事した際に「外国人にカネを掛けないと勝てないですよ、それが野球の有効投資。強くなれば人気も出る」と直言した。球団社長の立花陽三は、編成を担当していたアマ・スカウトグループマネジャー楠城徹ら5人を一斉解雇し、野村克也の名誉監督を更新しなかった。現役メジャーリーガーのアンドリュー・ジョーンズ、ケーシー・マギー、斎藤隆を獲得し、ドラフトでは2位に則本昂大を指名し、その則本を開幕直前に行われたWBCに出場していた田中の疲労を考慮し開幕投手に抜擢した。4月19日の対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)の8回表二死一塁の場面で、ジョーンズの打席、二死一塁カウント1ボール2ストライクから成瀬善久の投じた外角低めいっぱいのストレートを見逃し三振と判定される。これを不服とし球審の橋本信治に暴言を吐いたとして2002年8月23日の対巨人戦以来3892日ぶりとなる退場処分を受けた(通算6度目、楽天監督就任後初の退場処分)。前半戦は球団初の首位で終えた。9月26日の対西武戦(西武ドーム)で球団史上初のリーグ優勝を達成した。異なる3球団をリーグ優勝させた監督は三原脩(巨人・西鉄・大洋)、西本幸雄(大毎・阪急・近鉄)に続き史上3人目、セ・パ両リーグ優勝に導いた監督は三原(西鉄・大洋)、水原茂(巨人・東映)、広岡達朗(ヤクルト・西武)、野村克也(南海・ヤクルト)、王貞治(巨人・ダイエー)に続き史上6人目。2013年の巨人との日本シリーズでは4勝3敗で日本シリーズ制覇を達成し、楽天初と同時に自身初の日本一になった(自身唯一の日本一でもある)。66歳でのリーグ優勝と日本一は、2000年の長嶋茂雄を超えるプロ野球最年長優勝記録である。 2014年、5月26日に持病の腰痛が悪化、この日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)を休養。同戦は一軍投手コーチの佐藤義則が指揮を執った。その後の検査で腰椎椎間板ヘルニアと、難病(=特定疾患)の一種である胸椎黄色靱帯骨化症と診断され、翌27日、球団は星野の同日以降の休養を発表し、佐藤が監督代行を務めることを発表した。その後手術を受け、無事に終了したことが6月17日に球団から発表されている。6月30日にはこの年監督として指揮を執るはずであった、オールスターゲームの出場を辞退、星野は総監督に就き、佐藤がオールスターゲームの監督代行を務めることになったが、7月2日付で楽天の監督代行に大久保博元が就いたことから(佐藤は一軍投手コーチに専念)、オールスターゲームの監督はいったん白紙に戻された。NPBは星野にオールスターゲームの監督を要請し、7月3日に星野がオールスターゲームで指揮を執ることが発表したが、7月12日に球団から体調の回復が間に合わないとして、指揮を辞退することが発表された。最終的には、千葉ロッテマリーンズ監督の伊東勤が全パ監督を務めることになった。7月24日の楽天の全体練習から監督に復帰、翌25日の対日本ハム戦(楽天Koboスタジアム宮城)から試合に復帰したが、この年チームは低迷。9月18日に今季限りでの監督退任を発表、同日行われた記者会見で星野は退任の理由を成績不振とこの年2カ月離れていたことを挙げている。シーズン最終戦の10月7日の対オリックス戦に敗れ、最下位が確定。前年優勝チームの最下位は史上5度目で、星野は飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁、野村克也に次いで史上6人目の両リーグで最下位の監督となった。
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