「南海ホークスOB」としてのスタンス
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「野村克也」の記事における「「南海ホークスOB」としてのスタンス」の解説
南海の後継球団である福岡ソフトバンクホークスでは、2013年に(南海時代からの通算で)ホークス創設75周年を記念したプロジェクト「LEGEND HAWKS」を展開。野村に協力を要請した結果、8月31日の対楽天戦(福岡 ヤフオク!ドーム)の試合前に開かれた記念セレモニーへの出席が実現した。野村がホークス関連のイベントに参加したのは、南海からの退団以来36年ぶり。捕手専任時代後期からの主力打者であった門田博光と共に当時の復刻ユニフォーム姿で登場した野村は、球団会長の立場で「見届け人」として参加した王に見守られながら、始球式で同ドームの右打席(門田は左打席)に立った。また、同月27日にベースボール・マガジン社から発売された『B.B.MOOK962 ホークス75年史 HAWKS 1938-2013』には、「ホークスの歴代指揮官」の立場で初めて応じたインタビューの模様が掲載されている。 楽天監督時代に監督としてのNPB公式戦通算1500勝を達成した直後には、当時のライバルであったソフトバンクから、球団取締役兼オーナーの孫正義名義で祝電が届けられた。野村は後に、「野球界に長く居て、さまざまな記録も作ってきたが、(選手や監督として在籍していた南海・ロッテ・西武・ヤクルト・阪神を含めても、NPB球団の)オーナーから祝電を受けたのは後にも先にも孫さんだけ。孫さんの名前で祝電をいただいたことはありがたく、本当に恐縮している」と語っていた。 2018年2月には、野球評論家としての取材を兼ねて、巨人とソフトバンクの春季キャンプを宮崎県内で視察。10日の「巨人宮崎キャンプ60周年記念 ジャイアンツOB対ホークスOB戦」では、ホークスOBチームの監督として南海のユニホームへ41年ぶりに袖を通した。もっとも、長嶋率いるジャイアンツOBチームに大敗したことから、試合後には「この(南海の)ユニホームは大嫌い。これにお世話になって、これに裏切られて。感謝と憎しみが五分五分」とコメント。その一方で、ソフトバンクのキャンプを視察した際には、「南海ホークスに24年間いて、最初に監督をやらせてもらったから、(親会社が南海→ダイエー→ソフトバンクに変わっても)ホークスのことを『他人』とは思えない。自分が今も生きているのはホークスのおかげで、ホークスに背中を向けて寝られないほど感謝している」と述べていた。ちなみに、野村が南海を退団してからホークスのキャンプを視察するのは、この時が初めてであった。 晩年は、ソフトバンクの捕手で、自身の現役時代と同じ境遇(母子家庭育ち)の甲斐拓也に目を掛けていた。2010年NPB育成ドラフト会議での最下位(6位)指名を経て育成選手として入団した甲斐は、支配下登録選手として背番号62を付けていた2017年7月に、仙台への遠征中に野村と初めて対面。その際に、野村の著書を数多く読んでいることを告白した。これに対して、野村は「君に(背番号)19番を付けて欲しい」という言葉で甲斐を激励。その後も、2019年の春まで、雑誌や『S☆1』などの番組で何度も対談していた。ホークスでは背番号19を野村の南海退団翌年(1978年)から1980年まで空き番とした後、1981年に山内孝徳が自らの希望で着用して以降(福岡ダイエー→ソフトバンク時代を含めて)、途中野手に転向した大越基や外国人を含めて投手が引き継いでいたが、甲斐は2017年から一軍の正捕手に定着。奇しくも、野村が永眠した2020年シーズンから、背番号を19に変更している。甲斐によれば、「捕手にとって一番大切なものは何か?」と野村に尋ねたところ、「捕手は投手を支えるポジションだから、功を他人に譲ること」という金言を授かったという。 ソフトバンクと巨人が対戦した2019年の日本シリーズでは、ヤフオク!ドームで第4戦を観戦。この試合でソフトバンクが4連勝でシリーズ3連覇を達成したことに対して、「OBだから嬉しい」と述べた。
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