「南海ホークスメモリアルギャラリー」での扱い
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「野村克也」の記事における「「南海ホークスメモリアルギャラリー」での扱い」の解説
大阪球場跡地のなんばパークスにある「南海ホークスメモリアルギャラリー」では、同球団で活躍した多数の選手を写真・映像・展示資料を用いて紹介しているが、2003年のオープン当初から長らく野村の功績を一切取り上げていなかった。1973年パ・リーグ優勝決定の瞬間を記録した展示写真の中に背番号「19」の「9」が写っているものの、シーズン単位で監督名を記した球団年表には、同年にドン・ブレイザーがヘッドコーチとして作戦面での采配を担っていたことを載せるにとどめていた。 「南海ホークスメモリアルギャラリー」がこのような展示を余儀なくされた背景には、野村が南海を退団するきっかけになった監督職の解任(1977年)などをめぐって、当時野村と交際していた沙知代と南海関係者の折り合いが悪かったことが遠因とされている(当該項に詳述)。現に沙知代は、南海電鉄からギャラリーの開設に際して野村関連の資料・写真の展示許可を求められた際に、自身の独断で展示への協力を一切拒否した。この件については、野村との共著『野村セオリー―絆』(ISBN 978-4759309539)にも、「(野村の南海監督解任から)20数年ぶりで、やっとあなたたちにカタキが取れます。主人の名前は入れないで結構です。優勝当時の写真があったら、そこから主人の顔を消してください。それが、あなたたちに対する私の長年の思いですから」と明記。「克也も(自身の決断に)文句を言わなかった」とも述べている。野村自身も、関西テレビのドキュメンタリー番組『ザ・ドキュメント 帰らざる黄金の日々 - 南海ホークスへの鎮魂歌』(2004年4月30日放送)で、「球団(旧経営者の南海電鉄)から私に縁切りをする訳にいかないだろうから、 こちらから縁を切らせてもらった」と語っていた。 これに対して、江本は野村の存命中に、「南海ホークスメモリアルギャラリー」への展示許可を野村に何度も働き掛けていた。野村自身も以前に比べて態度を軟化させていたが、展示を直々に認めるまでには至らず、沙知代が2017年12月8日に85歳、野村が2020年2月11日に84歳で永眠。南海電鉄では、「野村夫妻の生前の意思を尊重する」として、野村が永眠した際にも「南海ホークスメモリアルギャラリー」に献花台を設けなかった。さらに、野村の遺族に対しても、展示の許可を得る意向がないことを示していた。 実際には克則が遺族を代表して野村の遺品を管理しているため、江本は克則に対して展示の許可を独自に打診した。克則も「(野村が)南海で活躍していたことをほとんど知らないので、(自身が捕手・野村が監督として在籍していた阪神時代に)メモリアルギャラリーを訪れた際に、(野村の)写真も記録も残されていないことを残念に思った」とのことで、2020年10月に展示を承諾。社屋(難波サンケイビル)が「なんばパークス」に近いサンケイスポーツの大阪本社でも、営業局員の宇野政城を中心に、野村の遺品をギャラリーに展示させる計画が持ち上がっていた。このような状況の下で、同紙の評論家でもある江本は、同年11月に「おかえり!ノムさん大阪球場に。」というプロジェクトを立ち上げた。 生前の野村は産経新聞との縁が深く、小学校3年時から中学校を卒業するまで携わっていた新聞配達で『サンケイ新聞』(大阪本社発行版)も扱っていたほか、西武で現役を引退してからは『サンケイスポーツ』での評論を長く担当していた。また、宇野は野村と同じ丹後地方(京都府宮津市)の出身で、小学生時代に沙知代を伴った野村の帰郷へ遭遇。野村の現役時代をリアルタイムで知らない世代でありながら、野村の訃報へ接したことを機に、「野村さんに関する『何か』を(南海ホークスメモリアルギャラリーに)残したい」との思いからプロジェクトの立ち上げに動いたという。 「おかえり!ノムさん大阪球場に。」では、ギャラリーのリニューアルを実施したうえで、克則から提供された野村関連の資料や写真を展示することを計画。運営を担う実行委員会には、南海電鉄とサンケイスポーツを中心に、ギャラリーの所在する大阪市が後援団体、野村の出身地である京丹後市が協力団体として名を連ねている。さらに、2,000万円を目標に、リニューアル関連の経費をクラウドファンディングで賄うことも計画。2021年1月11日まで出資を受け付けたところ、2,388人の出資者から4,354万1,500円もの支援金が寄せられたため、リニューアル(克則からの提供品を展示する「野村克也コーナー」の新設など)の実現に至った。 2021年2月14日からは、克則が提供した野村関連の展示品(キャッチャーミット、南海最終年の1977年にホームゲームで着用したユニフォーム、1965年にパ・リーグから授与された三冠王受賞記念の楯、サイン入りの記念ボール・記念バットなど10点)を一般に公開(展示品は随時入れ替え)。野村の捕手兼任監督時代の胴上げ写真が、リニューアルを機にギャラリーの外壁へ新たに掲げられたほか、資料映像や球団年表なども野村の功績を反映させたうえで一新された。江本は、野村の孫(克則の長男で日本大学硬式野球部外野手の野村忠克)と共に、1974 - 1976年仕様のレプリカユニフォーム姿(アスレチックス風のホーム用バージョン)で同日のリニューアル記念セレモニーに参加。2階のキャニオンストリート(大阪球場のピッチャーズプレートとホームベースの位置を示す記念プレートが埋められているオープンスペース)で、忠克を相手に「メモリアルピッチ」を披露している。
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