「南海ホークスメモリアルギャラリー」での扱いとは? わかりやすく解説

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「南海ホークスメモリアルギャラリー」での扱い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:29 UTC 版)

野村克也」の記事における「「南海ホークスメモリアルギャラリー」での扱い」の解説

大阪球場跡地なんばパークスにある「南海ホークスメモリアルギャラリー」では、同球団活躍した多数選手写真・映像展示資料用いて紹介しているが、2003年オープン当初から長らく野村功績一切取り上げていなかった。1973年パ・リーグ優勝決定瞬間記録した展示写真中に背番号19」の「9」が写っているものの、シーズン単位監督名を記した球団年表には、同年ドン・ブレイザーヘッドコーチとして作戦面での采配担っていたことを載せるとどめていた。 「南海ホークスメモリアルギャラリー」がこのような展示余儀なくされた背景には、野村南海退団するきっかけになった監督職の解任1977年)などをめぐって当時野村交際していた沙知代南海関係者折り合い悪かったことが遠因とされている(当該項に詳述)。現に沙知代は、南海電鉄からギャラリー開設に際して野村関連資料写真展示許可求められた際に、自身独断展示への協力一切拒否した。この件については、野村との共著野村セオリー―絆』(ISBN 978-4759309539)にも、「(野村南海監督解任から)20数年ぶりで、やっとあなたたちカタキ取れます主人の名前は入れない結構です優勝当時写真あったら、そこから主人の顔を消してください。それが、あなたたち対する私の長年思いですから」と明記。「克也も(自身決断に)文句を言わなかった」とも述べている。野村自身も、関西テレビドキュメンタリー番組ザ・ドキュメント 帰らざる黄金の日々 - 南海ホークスへの鎮魂歌』(2004年4月30日放送)で、「球団(旧経営者南海電鉄)から私に縁切りをする訳にいかないだろうから、 こちらから縁を切らせもらった」と語っていた。 これに対して江本野村存命中に、「南海ホークスメモリアルギャラリー」への展示許可野村何度も働き掛けていた。野村自身以前比べて態度軟化させていたが、展示直々に認めるまでには至らず沙知代2017年12月8日85歳野村2020年2月11日84歳永眠南海電鉄では、「野村夫妻生前意思尊重する」として、野村永眠した際にも「南海ホークスメモリアルギャラリー」に献花台設けなかった。さらに、野村遺族に対しても、展示許可を得る意向がないことを示していた。 実際には克則が遺族代表して野村遺品管理しているため、江本は克則に対して展示許可独自に打診した。克則も「(野村が)南海活躍していたことをほとんど知らないので、(自身捕手野村監督として在籍していた阪神時代に)メモリアルギャラリーを訪れた際に、(野村の)写真記録残されていないことを残念に思ったとのことで、2020年10月展示承諾社屋難波サンケイビル)が「なんばパークス」に近いサンケイスポーツ大阪本社でも、営業局員宇野政城を中心に野村遺品ギャラリー展示させる計画持ち上がっていた。このような状況の下で、同紙の評論家でもある江本は、同年11月に「おかえり!ノムさん大阪球場に。」というプロジェクト立ち上げた生前野村産経新聞との縁が深く小学校3年時から中学校卒業するまで携わっていた新聞配達で『サンケイ新聞』(大阪本社発行版)も扱っていたほか、西武現役引退してからは『サンケイスポーツ』での評論長く担当していた。また、宇野野村と同じ丹後地方京都府宮津市)の出身で、小学生時代沙知代伴った野村帰郷遭遇野村現役時代リアルタイム知らない世代ありながら野村訃報接したことを機に、「野村さんに関する『何か』を(南海ホークスメモリアルギャラリーに)残したい」との思いからプロジェクトの立ち上げ動いたという。 「おかえり!ノムさん大阪球場に。」では、ギャラリーリニューアル実施したうえで、克則から提供され野村関連資料写真展示することを計画運営を担う実行委員会には、南海電鉄サンケイスポーツ中心にギャラリー所在する大阪市後援団体野村出身地である京丹後市協力団体として名を連ねている。さらに、2,000万円目標に、リニューアル関連経費クラウドファンディング賄うことも計画2021年1月11日まで出資受け付けたところ、2,388人の出資者から4,3541,500円もの支援金寄せられたため、リニューアル(克則からの提供品を展示する野村克也コーナー」の新設など)の実現至った2021年2月14日からは、克則が提供した野村関連展示品キャッチャーミット南海最終年1977年ホームゲーム着用したユニフォーム1965年パ・リーグから授与され三冠王受賞記念サイン入り記念ボール記念バットなど10点)を一般に公開展示品随時入れ替え)。野村捕手兼任監督時代胴上げ写真が、リニューアル機にギャラリー外壁新たに掲げられたほか、資料映像球団年表なども野村功績反映させたうえで一新された。江本は、野村の孫(克則の長男日本大学硬式野球部外野手野村忠克)と共に1974 - 1976年仕様のレプリカユニフォーム姿(アスレチックス風のホーム用バージョン)で同日リニューアル記念セレモニー参加2階のキャニオンストリート(大阪球場ピッチャーズプレートホームベース位置を示す記念プレート埋められているオープンスペース)で、忠克を相手に「メモリアルピッチ」を披露している。

※この「「南海ホークスメモリアルギャラリー」での扱い」の解説は、「野村克也」の解説の一部です。
「「南海ホークスメモリアルギャラリー」での扱い」を含む「野村克也」の記事については、「野村克也」の概要を参照ください。

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