1974 - 1976年(昭和ベルばら)
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「ベルサイユのばら (宝塚歌劇)」の記事における「1974 - 1976年(昭和ベルばら)」の解説
月組初演を皮切りに4組で上演。 1974年・月組 8月29日 - 9月26日(新人公演:9月12日):宝塚大劇場、11月2日 – 11月27日(新人公演:11月18日):東京宝塚劇場 併演は宝塚では舞踊詩『秋扇抄 』、東京ではショー『ザ・スター 』。今から比較すれば、一番原作に忠実な脚本といえる。 公演当時NHKで実況中継(一部省略あり)され、後に再放送もされた他、宝塚歌劇専門CSチャンネルTAKARAZUKA SKY STAGEでも放映された。 宝塚公演のデータ 形式名:宝塚グランドロマン 3部30場 1975年・花組 7月3日 - 8月12日(新人公演:7月16日):宝塚大劇場、11月1日 – 11月27日(新人公演:11月16日):東京宝塚劇場 サブタイトルは「〜アンドレとオスカル〜」。この作品からすべて一本立て興行。原作で人気のあったアンドレとオスカルのカップルに的を絞った脚本。 当時ダブルトップだった花組においてオスカル役をめぐり、初演で演じて人気を決定付けた榛名由梨と、初演前にファンの間でオスカル役が最も似合うといわれていた安奈淳それぞれを推す意見があり、歌劇団上層部でも議論が分かれた。最終的には植田紳爾がオスカル:安奈を主張して押し切った。そのかわり、サブタイトルでは榛名の役名の方をトップにしたという、ダブルトップ(榛名の方が上級生)の扱いに配慮したエピソードが残っている。 安奈によると、当初の予定ではオスカル役が榛名でアンドレ役が安奈だった。前年の『ベルばら』で榛名が初代オスカル役を演じたことから、1975年版も引き続き同役に選ばれた。しかし、安奈は「オスカルとアンドレが並んだ時に、自分より背の高い榛名さんがアンドレを演じた方が見た目のバランスがいいのでは?」と考えた。脚本を担当した植田に配役を相談した所、「それもそやな」と言われてオスカル役を安奈、アンドレ役を榛名で演じることが決まったとのこと。 この公演から、オスカルがアンドレの膝枕で眠る場面、アンドレの毒殺未遂、ロザリーの出生の秘密、盗賊「黒い騎士」の正体などの場面が新しく加えられた。宝塚公演のデータ 形式名:昭和49年度芸術祭受賞記念 宝塚グランドロマン 3部34場 1975年・雪組 8月13日 - 9月30日(新人公演:9月20日):宝塚大劇場、1976年3月28日 - 4月25日(新人公演:4月11日):東京宝塚劇場 花組が大評判となった為、急遽続演が決定。トップ汀夏子がオスカルに適役ということもあり、花組版の細部を改訂した脚本となる。雪組はダブルトップではないため、当時研6(入団6年目)の麻実れいがアンドレに大抜擢された。 翌76年の東京公演時に下記星組公演との「ベルばら東西同時上演」が実現、そればかりでなく、4月からは花組による地方公演も始まっており、全4組中3組が同時に「ベルばら」を上演する、というブーム絶頂期を窺わせる公演日程であった。宝塚公演のデータ 形式名:昭和49年度芸術祭受賞記念 宝塚グランドロマン 3部35場 1976年・星組『ベルサイユのばらIII』 3月25日 - 5月12日(新人公演:4月13日):宝塚大劇場、7月2日 - 8月1日:東京宝塚劇場 初演月組の脚本を元に、花組・雪組の名場面も取り入れつつ、フェルゼンとマリー・アントワネットを中心に描いた改訂版。 宝塚では当初、5月11日までの予定であったが、好評のため12日まで上演された。 初風諄が月組から特別出演。また、初日には歴代4人のオスカルが勢揃いし、華を添えた。東京公演中、7月21日、22日に役替わり公演があり、マリー・アントワネットを四季乃花恵、フェルゼンを峰さを理が演じた。宝塚公演では先述の4人が期間ごとにオスカルを演じる役替わりの新機軸も導入され、呼び物となった。 第62期生(日向薫、夏美よう、飛鳥裕ら)の初舞台公演。 宝塚歌劇のベルばら作品ではこの作品において唯一ヴァレンヌ事件が演じられている。(「第2部・7場 ヴァレンヌの森」) このシーンでは国王一家が乗る馬車を曳く馬に本物の馬が使われた(本物の馬が用いられたのは宝塚での公演のみ)。また、 フェルゼンが神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(アントワネットの兄)に謁見を果たし、アントワネット救出を嘆願する場面などがこの公演から新しく書かれている。宝塚公演のデータ 形式名:宝塚グランド・ロマン 2部30場 1976年・月組『ベルサイユのばらIII』 8月5日 – 8月30日:東京宝塚劇場 星組の大評判のため、急遽東京宝塚劇場でのみ上演された。フェルゼンとマリー・アントワネットを中心に描き、星組の脚本をさらに改訂、東京公演のみという変則的な形ではあるが、昭和ベルばらの集大成として、上演に約2時間30分を要する昭和版最大規模の作品に仕立てられた(無論、当時としては大作だが、平成版以降はこの作品規模が標準となる)。初風諄はこのアントワネット役を花道に退団した。 鳳蘭が星組より特別出演。20日に役替わり公演があり、マリー・アントワネットを北原千琴、フェルゼンを当時研4(入団4年目)の大地真央が演じた。 フェルゼンの帰国の際、アンドレが「帰る前にオスカルに会ってやってください」と頼む場面などが新設された。 ここまでの公演ですべて、実況LPが発売された(初演~星組版は各2枚組。この月組東京公演は歌劇実況LPでは唯一となる3枚組商品)。 人気に応える形でこの年だけでも全4組による公演が実現(地方公演含む)しており、初演からここまでの上演で合計約140万人の観客を動員。長谷川の演出ということもありファンが急増、空前のタカラヅカブームを巻き起こした。作品の成功に対し1974年に文化庁芸術祭優秀賞、ベルばらシリーズに対して1976年に菊田一夫演劇賞特別賞が贈られた。
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1974 - 1976年
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「プリムス・ヴァリアント」の記事における「1974 - 1976年」の解説
1974年モデルでは108inホイールベースのA-ボディ・セダンが廃止され、ヴァリアントのセダンはダートのリバッジ版となった。厚くなったCピラーと新しい後部フェンダーの形状によりサイズは大型化した。これ以降ヴァリアントとダートの差異は細かな飾りのみとなった。1973年モデルのヴァリアントのグリルとフロントのプレス型は1974年モデルに引き継がれたが、前部バンパーのゴム製ガードはクローム化された。連邦規制の5mph(8.0km/h)バンパーが1974年モデルでは後部バンパーで標準化され、ヴァリアントの重量を更に増加させていた。 1974年モデルでは「ヴァリアント ブロアム」(Valiant Brougham )と双子車の「ダッジ・ダート スペシャル・エディション」(Dodge Dart Special Edition )が導入された。2ドアと4ドアが用意されたこれらのコンパクト・クラスの豪華車は1973年のオイルショック以後大型の豪華車に対する魅力的な選択肢となった。ブロアムには潤沢なクローム、ビニール・ルーフ、毛足の長いカーペット、ヴェロア生地内装、ドア内張り、塗装でアクセントが付けられるかワイヤーホイールを模したホイールカバーを備え、塗色と内装の特別な組み合わせが選択できた。パワーステアリング、パワー・ディスクブレーキ、エアコン、クルーズコントロール、後部窓の電熱デフロスター、AM/FMラジオといった通常のヴァリアントではオプション装備の多くがブロアムでは標準装備であった。 多少変更を加えられたグリルを持つ1975年モデルは、カリフォルニア州向けと上級モデルに装備した三元触媒と無鉛ガソリン仕様を除けば本質的には1974年モデルからのキャリーオーバーであった。1975年モデルのヴァリアントは燃費性能に関心がある購入者が選択できる新しい装備が幾つかあった。この中にはラジアルタイヤ、ドライバーが燃費に悪い運転をすると警報を発する「フュエル・ペーサー」(Fuel Pacer )機能、同時にクライスラー製A833OD 4速MT(最初のクライスラー製4速MTは1965年から北米市場で6気筒エンジン車に装備された)があった。新しい5万マイル(約8万km) 無交換スパークプラグ[要出典]、バッテリーや12カ月間と距離無制限で内装以外の全てをカバーする「決定版」(Clincher )保証が用意されていた。 1976年モデルは事実上1975年モデルと同じであったが、前部のウインカー・ライトが透明から橙色に、引っ張りハンドル式のパーキングブレーキがフットペダル式に変更されていた。
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