1974–1982年;ペロンとの出会いと2回の逮捕
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「ブラウニー・メアリー」の記事における「1974–1982年;ペロンとの出会いと2回の逮捕」の解説
ラスバンが後に同志となるデニス・ペロンと初めて出会ったのは、1974年、カストロ通りのカフェ・フローレだった。この店で二人は紙巻の大麻をシェアしあった。彼女はアイホップでウェイトレスとして働きながら、大麻を混ぜたブラウニーを売っては副収入を得た。彼女のことはカストロ通りでバスケットに入れた「魔法のブラウニー」を数ドルで売る女として知られるようになった。彼女は大麻入りのブラウニーを焼いては、外に出かけて買い手を探した。ペロンもまたこの町のスーパーマーケットで彼女のブラウニーを販売していた。ペロンは1977年に「仕事」をしているところを警官に押さえられ、足を撃たれている。 1980年代のはじめ頃には、1日に50ダースもの大麻入りブラウニーを焼き上げるようになっていた。彼女はサンフランシスコの掲示板に「オリジナルレシピのブラウニー」の宣伝文句を書き込んだ。いわく「魔法にかけられたような美味しさ」とのことだった。彼女の副業はおとり捜査官に目をつけられ、1981年1月14日の夜、警官がラスバンの家へ強制捜索にはいると8kg強の大麻と54ダースの大麻入りブラウニー、その他諸々のドラッグが見つかった。この夜、求めに応じてドアを開けたラスバンは警官に「あんたらが来るのはわかっていたよ」と言ったという。この最初の逮捕のとき、彼女は57歳だった。メディアが彼女を「ブラウニー・メアリー」の名で呼び始めたのはこの頃からである。彼女は所持品について9つの罪を認め、3年の執行猶予となった。また、判事からは500時間の奉仕活動も命じられた。これがきっかけとなり、ラスバンはHIV患者を支援する団体であるシャンティ・プロジェクトで働くようになった。ペロンは次のように回想している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}初めての500時間の奉仕活動で、彼女はゲイが集まるリサイクルショップからシャンティ・プロジェクトまでいろんな場所で働いた。日にちに数えて60日間という記録的な長さだった。もはや奉仕活動をする義務はないにも関わらず、1982年まで聖マルティン・デ・ポレス・スープキッチン〔炊き出し所〕で仕事をしていた。その後、彼女は当時問題になっていたエイズによる危機的状況に立ち向かうための集団、シャンティ・プロジェクトに加わった。メアリーは自動車事故でたった一人の娘を亡くしている…。彼女はいまではサンフランシスコ中の子供たちをみんな我が子のように扱っている。 ラスバンのブラウニーを買い求めるのは、もっぱらゲイの男性であった。1980年代初頭にエイズにかかる男性が現れ始めた頃、彼女は大麻が衰弱症候群に落ちいった人々の癒しになることを発見した。そして同じことがガン患者にも当てはまることに気づいたのである。大麻は寄付で自然と集まるようになった。ラスバンはそれをブラウニーに混ぜて何百個と焼いては、病気の人たちへ無償で配布することを始めた。彼女が社会保障制度のもと毎月受け取っていた650ドルの小切手も、ブラウニーの生地を買うよすがとなった。 1982年12月7日、ラスバンがブラウニーの入ったかばんを抱えてマーケット・ストリートを歩いているところに、偶然、1981年に彼女をはじめて逮捕した警官の一人が通りかかった。ガンとその化学治療の副作用に苦しむ友人に、大麻入りのブラウニーを届ける途中であった。警官がラスバンを呼び止めてカバンの中身を調べると、4ダースものブラウニーが見つかった。ラスバンは市内の刑務所に連行され、複数の所持罪と執行猶予中の再犯によりそのまま収容された。しかし結局州地方検事は起訴を取り下げている。
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