プロジェクトの立ち上げ
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「下町ボブスレーネットワークプロジェクト」の記事における「プロジェクトの立ち上げ」の解説
2010年12月。大田区の職員であり大田区産業振興協会に出向していた小杉聡史は、スポーツ用品の開発を通じて大田区の町工場の技術をアピールするための計画を練り上げていた。種目の絞り込みの過程で、前節のハードロック工業がボブスレー開発に協力したとする報道があったことを小杉は知る。ナット一つで報道されるのならボブスレー1台を作り上げればより注目を集めるのではないか、との着想を得た彼はボブスレーを更に検討し、ボブスレーの製造に要求されるであろう高精度・少数生産・短納期という要求は町工場の特質とマッチングしており、また既にボブスレー製造に参入しているBMWやフェラーリと言った巨大資本とそれに挑戦する町工場の連合という対決の構図は高い話題性をもつだろうと分析しつつ、この種目が大田区の町工場の技術アピールの場として最適であるとの確信を深めていく。この他にも他地域の先行事例である「まいど1号」や「江戸っ子1号」、そしてもちろんプロジェクト名にも影響を与えたベストセラー小説『下町ロケット』などを意識しつつ、小杉は「夢プロジェクト『下町ボブスレー』」と題した提案書をまとめ上げ、2011年8月大田区の職員提案制度に提案する。大田区と言う役所の主導でこのプロジェクトを進める事はスポーツ用品の開発に必要なスピード感を損なうと判断されこの場では不採用となったが、大田区産業振興協会の広報として民間との関係を築きながらプロジェクトの実現を模索するという方向で小杉は上司から許可を取り付け、大田区の町工場を巡り、またその伝手を通じて協力者を獲得していく。 こうして集められたプロジェクト立ち上げ時のメンバーの中には、細貝淳一、船久保利和、奥明栄、脇田寿雄の姿があった。細貝及び船久保は後にプロジェクトの代表者である委員長を務める人物である。奥は先の計画の開発リーダーであり、1994年当時は童夢の社員であったが後に炭素繊維強化プラスチック(CFRP)の製造を専業とする子会社・童夢カーボンマジックの設立に尽力し、社長に就任していた。奥には1994年の計画の設計図を保有していることが密かに期待されていたが、15年の時が経過する中で既に散逸してしまっており、そもそも当時とはレギュレーションが変更されていたため仮に残っていたとしても使い物になる代物ではなかった。いずれにせよ頓挫したとは言えボブスレーの開発経験を持ち、大田区に存在しないドライカーボンのCFRP製造技術を有す奥はプロジェクトに欠くべからざる存在であった。脇田寿雄も奥と共に1994年の計画に参加していた人物であり、1998年長野オリンピックにおいてオリンピックへの参加記録を4回に伸ばしていた。
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