オリンピックへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/06 23:30 UTC 版)
「カルロ・アイロルディ」の記事における「オリンピックへ」の解説
アイロルディは、1896年のアテネオリンピックへの参加を希望していた。しかし、彼にはアテネに行くための旅費がなかった。彼は幾らかのお金を当時有名だった「La Bicicleta」という雑誌の社長から受け取って、安上がりでアテネへの旅行をする提案をした。アイロルディは、オーストリア、トルコ、そしてギリシャを徒歩で横断して、アテネへの旅程を走りぬくことに決めた。1日に70キロメートルの距離を走れば、マラソン競技の実施時までにアテネに到着する計算だった。雑誌社は彼の旅程の全てを記録することにして、必要な物資と情報を供給することになった。 雑誌社はアイロルディの旅の開始を容認した。彼は最初にミラノまで何の問題もなく到着した。次に彼は、クロアチアの海岸線沿いにコトルとケルキラ島を通過する計画を立てた。しかし、ドゥブロヴニクに到着する前に彼は転倒して手を負傷してしまい、2日間の休養を余儀なくされることになった。アイロルディは徒歩でアルバニアを横断できないと言われたため、オーストリアの船でギリシャの都市パトラへ赴き、それからアテネへ鉄道の路線沿いに徒歩で向かった。 アイロルディは、アテネへの旅を28日かけてやり遂げた。けれども、彼は不運にもオリンピックのマラソン競技への参加を許可されなかった。オリンピック組織委員会の上層部は、かつてアイロルディがミラノとバルセロナ間のマラソンで賞金を受け取っていたことを問題視して彼をプロの運動選手とみなし、参加を拒否したのである。イタリア当局はオリンピック組織委員会に電報で彼の参加を打診したが、それでも決定は覆らなかった。イタリア国民は、ギリシャの選手をオリンピックで勝たせるために、強敵となるアイロルディの参加を許さなかったのだろうと受け取った。アイロルディは最終決定を拒否した。彼はそれからアテネオリンピックマラソン競技の覇者スピリドン・ルイスにレースでの対戦を申し込んだが、ルイスがこの挑戦を受けることはなかった。
※この「オリンピックへ」の解説は、「カルロ・アイロルディ」の解説の一部です。
「オリンピックへ」を含む「カルロ・アイロルディ」の記事については、「カルロ・アイロルディ」の概要を参照ください。
- オリンピックへのページへのリンク