阪神監督としての評価とは? わかりやすく解説

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阪神監督としての評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:29 UTC 版)

野村克也」の記事における「阪神監督としての評価」の解説

メディアでは「阪神では常勝チームとなる礎を築いた」などと紹介されることが多いが、最下位からの浮上出来ず、あまり結果残したとはいえない3年であった上述のように南海ヤクルト時代とも多少なりとも戦力揃っており、野村はそのチーム弱点絶対的な抑え投手捕手、1番打者などの不在等)を的確に改善してきた。しかし野村監督をしていた当時阪神本塁打20程度打てるものの三振多く規定最低打率を争う状態だった新庄桧山進次郎クリーンナップとして出場するなど過去2球団と異なり選手層が薄いチームであった投手陣では、リリーフエースから先発転向させた福原忍若手野村監督就任2年目だった井川慶大きな期待をかけていた。特に井川については野村監督つとめた3年間でエースとして成長した。また「遠山葛西スペシャル」などは人材難の裏返しでこそあったが、野村時代3年間でチーム防御率は4.04⇒3.90⇒3.75と年々改善されている。福原井川活躍してセ・リーグ制覇勝ち取った2003年シーズンおよび2005年シーズンチーム防御率それぞれ3.53と3.24だった。 野村と共にヤクルトから移籍したヘッドコーチ松井優典は「ミーティング仕切れない。その言葉説得力がない」、打撃コーチ柏原純一は「外国人選手に対してものを言えない。また特定の選手例え人気新庄剛志外野手しか指導しない。それ以外選手熱意持った指導がない」そんなことを野崎オーナー久万伝えた一方でチーム打撃成績中々上がらず戦力少ない中でのやりくり上手く行かず、「何度駄目なところを指摘して直さない日本語通じないのか」と度々酷評していた今岡誠大豊泰昭(後に中日移籍)との対立話題挙がることも多かったが、こうした対立あくまでも少数派であり、岡田彰布監督就任した前後野村楽天監督となった後も赤星藤本矢野輝弘桧山らは楽天戦の試合前には必ず挨拶しその様子は新聞などによって度々報じられていた。また、打率かつ三振多くレギュラーポジション奪われていた桧山中距離打者として地位確立したのも、新人赤星リードオフマンポジション得たのも、野村監督時代であったヤクルト時代教え子で、巨人退団後野獲得した広澤克実は「2000年阪神ヤクルト最下位争いしていた時代と同じ色がしていた。ベテラン外国人若手がみんなバラバラ不協和音流れ選手育たない独特の雰囲気だった。私は右肩脱臼骨折完治しておらず、ボール投げられない状態だったが、よく4番一塁使ってもらった一塁手大豊泰昭野村監督揉めていたからだ。」と述べている。 野村阪神監督時代二軍監督だった岡田は「阪神二軍監督の時は野村さんとの関係でいろいろ言われた。野村さんとは話をせずに報告ばっかりやったから、コミュニケーション取れんかったのは事実だ。野村さんは一度二軍試合は見にこんかった鳴尾浜には松井さんヘッドコーチ)がいつも来ていた。二軍選手数字ついてくる打者投手ファーム成績残し一軍上がりたい打っても、抑えて一軍からお呼びがかからなければモチベーションは下がるし、「なんで俺より先にあの選手が?」と疑問に思う。野村さんは一軍昇格させた選手一度使わず二軍に戻すこともあった。あの頃は、頑張っている選手たちの汗に応えてあげることができず本当につらかった。野村監督で一番参っていたのは今岡だろう。今岡自身にも問題あったかしれないが、野村さんは覇気のない態度や、時に見せ淡泊なプレーが気に入らなかったようだ今岡という選手二軍置いて調子を見るというタイプではない。気持ちで打つ選手やから、難しい球をホームランすることもあれば、あっさり三振する時もある。この点も野村さんには嫌われていたのではないか。」と述べている。 投手コーチだった八木沢は「ノムさん野球西武時代仕えた広岡達朗さん、森祇晶さんと比べて一番細かいが、いかんせん選手若かった。」と述べている。 グラウンドでの采配のみならずフロント積極的な戦力補強進言をしたとされる野村史上初め久万会談した阪神監督である。エース4番打者育てられない主張する野村対し久万は元々、FAなど多額金銭使って日本人選手獲得することに消極的で、補強トレード外国人獲得済ませていたこともあり、「巨人のようになれというのか」「4番バッター育てるのが監督役目」などと拒否していた。しかし野村は「ある意味では巨人補強方法は)正しい、時代合ったものです」と進言し、「じゃあ今まで60年あった阪神歴史の中で誰が(30本塁打以上打って本塁打王獲得するほどの)4番バッターにまで生え抜き成長しましたか? 掛布雅之ぐらいでしょう。あと60年待ちますか? 4番バッターだけは(才能ある選手との)巡り会いなんですよ」と説いたという。 また、当時阪神短期間監督代えていたこと、編成部有力な新人選手獲得失敗にも言及し、「監督だけ代えてチーム強くならない戦力補強編成部強化を行うべき」とも進言した。これらの意見対し久万会談激昂する場面もあったものの会談後、野村意見取り入れたと見られる施策打っている(片岡篤史ジョージ・アリアス補強鳥谷敬獲得等)。 当時阪神OB会が強い権力持ちベンチにも入って選手勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったと報じられた。 また、後任として中日監督だった星野久万推薦したのも野村であるという。任期途中で自分では阪神再建不可能と悟り「今の状態の阪神再建できるとすれば西本(幸雄)さんか星野だ」と、既に熱血指導型の星野に後を託す考えもあったと言われる後任星野久万直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー全てあなたの責任ですよ」と発言したその後阪神は、野村辞任2年後にあたる2003年岡田監督2年目2005年リーグ優勝果たした2006年5月30日野村楽天監督として初め甲子園球場における対阪神戦セ・パ交流戦)を迎えたが、選手交代告げグラウンド姿を現す野村を、甲子園阪神ファン歓声拍手迎えた

※この「阪神監督としての評価」の解説は、「野村克也」の解説の一部です。
「阪神監督としての評価」を含む「野村克也」の記事については、「野村克也」の概要を参照ください。

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