阪神監督としての評価
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メディアでは「阪神では常勝チームとなる礎を築いた」などと紹介されることが多いが、最下位からの浮上は出来ず、あまり結果を残したとはいえない3年間であった。上述のように南海、ヤクルト時代とも多少なりとも戦力は揃っており、野村はそのチームの弱点(絶対的な抑え投手、捕手、1番打者などの不在等)を的確に改善してきた。しかし野村が監督をしていた当時の阪神は本塁打を20本程度打てるものの三振も多く規定最低打率を争う状態だった新庄と桧山進次郎がクリーンナップとして出場するなど過去2球団と異なり選手層が薄いチームであった。 投手陣では、リリーフエースから先発に転向させた福原忍や若手で野村監督就任時2年目だった井川慶に大きな期待をかけていた。特に井川については野村が監督をつとめた3年間でエースとして成長した。また「遠山・葛西スペシャル」などは人材難の裏返しでこそあったが、野村時代3年間でチーム防御率は4.04⇒3.90⇒3.75と年々改善されている。福原や井川が活躍してセ・リーグ制覇を勝ち取った2003年シーズンおよび2005年シーズンのチーム防御率はそれぞれ3.53と3.24だった。 野村と共にヤクルトから移籍した、ヘッドコーチの松井優典は「ミーティングを仕切れない。その言葉に説得力がない」、打撃コーチの柏原純一は「外国人選手に対してものを言えない。また特定の選手、例えば人気の新庄剛志外野手しか指導しない。それ以外の選手に熱意を持った指導がない」そんなことを野崎はオーナーの久万に伝えた。 一方でチームの打撃成績は中々上がらず、戦力が少ない中でのやりくりも上手く行かず、「何度駄目なところを指摘しても直さない。日本語が通じないのか」と度々酷評していた今岡誠や大豊泰昭(後に中日移籍)との対立が話題に挙がることも多かったが、こうした対立はあくまでも少数派であり、岡田彰布が監督に就任した前後で野村が楽天の監督となった後も赤星、藤本、矢野輝弘、桧山らは楽天戦の試合前には必ず挨拶し、その様子は新聞などによって度々報じられていた。また、低打率かつ三振が多くレギュラーポジションを奪われていた桧山が中距離打者としての地位を確立したのも、新人の赤星がリードオフマンのポジションを得たのも、野村監督時代であった。 ヤクルト時代の教え子で、巨人退団後野村が獲得した広澤克実は「2000年の阪神はヤクルトが最下位争いしていた時代と同じ色がしていた。ベテラン、外国人、若手がみんなバラバラ。不協和音が流れ、選手が育たない独特の雰囲気だった。私は右肩の脱臼骨折が完治しておらず、ボールが投げられない状態だったが、よく4番一塁で使ってもらった。一塁手の大豊泰昭が野村監督と揉めていたからだ。」と述べている。 野村の阪神監督時代二軍監督だった岡田は「阪神の二軍監督の時は野村さんとの関係でいろいろ言われた。野村さんとは話をせずに報告ばっかりやったから、コミュニケーションが取れんかったのは事実だ。野村さんは一度も二軍の試合は見にこんかった。鳴尾浜には松井さん(ヘッドコーチ)がいつも来ていた。二軍の選手も数字がついてくる。打者も投手もファームで成績を残し一軍に上がりたい。打っても、抑えても一軍からお呼びがかからなければモチベーションは下がるし、「なんで俺より先にあの選手が?」と疑問に思う。野村さんは一軍に昇格させた選手を一度も使わず、二軍に戻すこともあった。あの頃は、頑張っている選手たちの汗に応えてあげることができず本当につらかった。野村監督で一番参っていたのは今岡だろう。今岡自身にも問題はあったかもしれないが、野村さんは覇気のない態度や、時に見せる淡泊なプレーが気に入らなかったようだ。今岡という選手は二軍に置いて調子を見るというタイプではない。気持ちで打つ選手やから、難しい球をホームランすることもあれば、あっさり三振する時もある。この点も野村さんには嫌われていたのではないか。」と述べている。 投手コーチだった八木沢は「ノムさんの野球は西武時代に仕えた広岡達朗さん、森祇晶さんと比べて一番細かいが、いかんせん選手が若かった。」と述べている。 グラウンドでの采配のみならず、フロントに積極的な戦力補強の進言をしたとされる。野村は史上初めて久万と会談した阪神の監督である。エースと4番打者は育てられないと主張する野村に対し、久万は元々、FAなど多額の金銭を使って日本人選手を獲得することに消極的で、補強はトレードと外国人獲得で済ませていたこともあり、「巨人のようになれというのか」「4番バッターを育てるのが監督の役目」などと拒否していた。しかし野村は「ある意味では(巨人の補強方法は)正しい、時代に合ったものです」と進言し、「じゃあ今まで60年あった阪神の歴史の中で誰が(30本塁打以上打って本塁打王を獲得するほどの)4番バッターにまで生え抜きで成長しましたか? 掛布雅之ぐらいでしょう。あと60年待ちますか? 4番バッターだけは(才能ある選手との)巡り会いなんですよ」と説いたという。 また、当時阪神が短期間で監督を代えていたこと、編成部の有力な新人選手獲得失敗にも言及し、「監督だけ代えてもチームは強くならない。戦力補強と編成部の強化を行うべき」とも進言した。これらの意見に対し、久万は会談中激昂する場面もあったものの会談後、野村の意見を取り入れたと見られる施策を打っている(片岡篤史やジョージ・アリアスの補強、鳥谷敬の獲得等)。 当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったと報じられた。 また、後任として中日の監督だった星野を久万に推薦したのも野村であるという。任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り「今の状態の阪神を再建できるとすれば西本(幸雄)さんか星野だ」と、既に熱血指導型の星野に後を託す考えもあったと言われる。後任の星野も久万に直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言した。その後阪神は、野村辞任の2年後にあたる2003年と岡田監督2年目の2005年にリーグ優勝を果たした。2006年5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における対阪神戦(セ・パ交流戦)を迎えたが、選手交代を告げにグラウンドに姿を現す野村を、甲子園の阪神ファンは歓声と拍手で迎えた。
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