野村監督時代
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2010年 シーズンに入ると大竹、セットアッパーのマイク・シュルツ、守護神・永川が故障で離脱、4年目の前田健太が最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠に輝き、孤軍奮闘したが、チーム防御率は前年から1点以上悪化するなど、投手陣が崩壊。また、攻撃では梵英心が盗塁王に輝くなど、チーム盗塁数はリーグ最多だったが、主砲・栗原が故障で離脱、前年3番の天谷宗一郎や新戦力のジャスティン・ヒューバーなど、主力が打撃不振で得点に結びつかず、その結果、対巨人戦で8連敗を含む6勝18敗、対中日戦では昨年に続き、11連敗を記録するなど、8勝16敗、対阪神で9勝15敗と3強に大きく負け越したことが影響し、ヤクルトを含む上位4チームに大きく離され、1度も3位争いに加われず、2年連続の5位となった。 2011年 東日本大震災の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり、新外国人のブライアン・バリントンとデニス・サファテに新人の福井優也、打撃では4年目の丸佳浩が活躍し、一時は首位に立つなど、2位で交流戦を迎えたが、その交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙し、交流戦を最下位で終え、リーグ順位も5位に急降下、前半戦を5位で終える。後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍し月間MVPを獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3.5ゲーム差の3位に浮上した。栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したがチームはサファテ、豊田清と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越し、Aクラス争いから脱落した。10月8日にはBクラスが確定し、結果は3年連続5位となった。 2012年 中日との開幕3連戦は2敗1分としたものの、巨人との本拠地での開幕戦では1988年以来の3連勝で4月6日の対横浜DeNAベイスターズ戦で前田健がノーヒットノーランを達成するなど、投手陣が球団新記録となる39回無失点もあり、4月8日に一時首位に立つものの、その後は失速し、4月を11勝11敗の5分とした。4月25日に栗原が離脱するなど、故障者が続出、交流戦は10勝11敗3分の6位とし、7月16日に5割復帰するなど、交流戦以降14勝7敗で前半戦を1997年以来の3位で折り返す。8月は5割で3位をキープしたものの、9月に入り15日から25日にかけて8連敗するなど、6勝17敗1分と負け越し、9月29日の対阪神戦(甲子園)で敗れ、Bクラスが確定した。最終的には首位巨人と26ゲーム、3位ヤクルトとは6.5ゲーム差の4位で終わった。野村祐輔が梵以来となる新人王となり、平成生まれでは初の受賞となった。 2013年 3月、オーナー代行に松田一宏が就任。開幕対巨人3連戦で1分2敗に終わり、前年から続く東京ドームでの連敗記録(引き分けを挟む)を10に更新したのを含め、2008年以来5年ぶりの開幕から4連敗とつまずく。4月13日に前田健太がナゴヤドームでは2010年開幕戦以来となる勝利を挙げようやく勝率5割に戻すが、同じ試合で5試合連続2桁三振のリーグタイ記録を作るなど、必ずしも調子は上向かず、同月18日の試合終了後に2度目の勝率5割となり、翌19日に借金生活に戻って以降、レギュラーシーズン終了まで一度も勝率5割に戻ることはなかった。交流戦は11勝13敗で西武と同率の8位。中日、DeNAとの3位争いとなるが、前半はオールスター直前の試合に敗れ、5位で折り返す。後半戦は8月13日に3位に浮上してからも、引き続き中日、DeNAとの3位争いとなるが、9月10日から9月17日にかけて2009年以来4年ぶりの7連勝を記録し、下位との差を広げた。なお、この連勝中の9月16日に4位中日の自力CSの可能性が消滅した。9月24日、対中日戦(ナゴヤドーム)に勝利し、CSクリンチナンバーを2として迎えた翌9月25日の対中日戦(ナゴヤドーム)に2対0で勝利し、1997年以来16年ぶりのAクラスと球団史上初のクライマックスシリーズ進出が決定し、10月3日の対中日戦(マツダ)に3対5で敗れ、12年連続負け越しと3位が確定した。前田智徳、菊地原毅が現役を引退した。2位の阪神とのCSファーストステージ(甲子園)は2連勝でファイナルステージ進出を決めたが、巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)では3連敗でCS敗退が決定した。 2014年 前年に続き、巨人と阪神との優勝争いとなるが、9月26日の対阪神戦(マツダ)に敗れ、巨人の優勝が決まったが、同時に2年連続クライマックスシリーズ進出も決定した。その後、阪神との2位争いとなったが、10月6日のシーズン最終戦の対巨人戦(マツダ)に敗れ、2年連続3位が確定した(なお、貯金を作ってのシーズン終了は2001年以来13年ぶり、貯金を作ってのAクラス入りは1996年以来18年ぶりである)。10月8日、野村謙二郎が監督辞任を球団に申し入れ、了承された。阪神とのCSファーストステージ(甲子園)では、第2戦で延長12回表に0対0とされた時点で阪神の勝ち上がりが決定し、0勝1敗1分でCS敗退が決定。10月15日に野村の後任に野手総合コーチの緒方孝市の就任が発表された。11月14日に阪神を自由契約となった新井貴浩、12月27日にニューヨーク・ヤンキースをFAとなった黒田博樹が8年ぶりに復帰。
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野村監督時代
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「福岡ソフトバンクホークス」の記事における「野村監督時代」の解説
1970年 佐藤道郎がリリーフで18勝を挙げ期待通りの活躍を見せ、打線が好調だったものの、杉浦忠・皆川睦雄・三浦清弘ら投手陣が精彩を欠き、前半戦はなかなか勝てないでいた。7月28日の時点で首位ロッテと8ゲーム差で、大阪球場で3連戦を迎えたが1勝1敗1分で追い上げられず、直後1分を挟む5連敗などもあり、最終的にチームは69勝57敗で首位のロッテと10.5ゲームの2位となる。佐藤は最優秀防御率と新人王を獲得。 1971年 4月は首位の近鉄に次ぐ2位につけたが、5月以降は前年Bクラスの阪急が首位を奪取するとチームは6月以降近鉄との3位争いに終始した。2年目の門田博光が3割・30本・120打点で初タイトルとなる打点王を獲得する活躍をしたが最後は近鉄に引き離され、チームは首位阪急から22.5ゲーム差の4位に終わる。 1972年 東映からトレードで獲得した江本孟紀が前年度未勝利から背番号と同じ16勝を挙げ西岡三四郎と並ぶ南海のエース級投手へと成長。チームの要である野村克也が101打点で東映の大杉勝男とともに7度目の打点王を獲得。投手の佐藤道郎が.750で最高勝率で初のタイトルを獲得。チームは4月を首位で終え、6年ぶりの優勝が期待されたが5月以降は阪急に首位の座を奪われると、東映・近鉄との2位争いが終盤まで続いた。最終的には2位の近鉄と同ゲーム差ながら勝率3毛差、首位・阪急から14ゲーム差の3位。 1973年 この年からパ・リーグは前後期制度を導入。前期はこの年巨人から移籍の山内新一が6月6日にリーグ一番乗りの10勝到達するなど、チームは6月13日に単独首位に立つとそのまま前期優勝。後期は対阪急戦で1分12敗と1勝も出来なかったが、後期はその阪急が優勝し、プレーオフを阪急と戦う。阪急圧倒的有利の声の中、南海が3勝2敗で勝利し、後期の南海の阪急に対する戦いぶりは「死んだ振り」と評された。日本シリーズでは巨人と対戦するが、1勝4敗で敗退している。この年が南海時代最後のリーグ優勝となった。 オフ、日拓ホームフライヤーズの西村昭孝が、南海とロッテオリオンズの合併計画を持ち出した。西村は「パ・リーグに将来性はない」として1リーグ制移行を見据えた球団合併を行うことにしたが、合併についてはまだ明らかにされていなかったにも関わらず、関西のあるスポーツ紙が先走って、南海と近鉄の合併を報じたために球界は騒然としたが、日拓が日本ハムへ身売りしたことで1リーグ問題も収束に向かい、近鉄との合併の噂も自然消滅した。 1974年 野村克也が開幕2戦目で右ひざ痛で欠場するなど、この年は主力選手の故障が相次ぎ、5月まで負け越し6月以降は成績は上向くが前期は27勝28敗10分に終わる。後期は開幕からオールスターまで7勝3敗と好スタートしたものの、故障者が相次ぎ、それでもロッテ、阪急との三つ巴の争いとなるが、9月に入り、5連敗するなど後退し3位に終わる。 1975年 4月20日の対近鉄戦ダブルヘッダーにおいて第1試合を投手の自責点無しで4対3で敗れ、第2試合は神部年男にノーヒットノーランを達成されて1対0で敗れ、防御率は2点台だったものの、序盤から15試合で23失策を記録するなど守備の乱れが相次ぎ、5月に入っても連敗が相次ぎ、前期は27勝32敗6分で5位。後期も序盤ロードでの6連戦で得点が失点を上回るものの、2勝4敗と負け越し、本拠地に戻って阪急に3連敗で最下位となり低迷、9月に月間で勝ち越すものの、それまでの敗戦が響き、30勝33敗2分の3位で年間では5位に終わる。特に近鉄に6勝18敗5分と負け越したのが大きく響いた。二軍では13年ぶりにウエスタン・リーグで優勝。オフ、南海の江本孟紀と阪神の江夏豊らによる4対2のトレードが行われる。 1976年 期待された江夏豊がシーズン通して6勝12敗と誤算だったものの、この年リーグ1の投手陣だったが、打撃陣は新外国人トム・ロブソンが不振、野村が故障で10本塁打に終わるなど長打力にかけ、前後期ともに2位に終わる。この年、前後期1位の阪急は後期の序盤から不振だったが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}8月22日からの阪急3連戦を2勝1敗とした事を足がかりに11連勝し、この間南海は五分の成績で阪急を勢いづかせたのが大きく響いた。[疑問点 – ノート] 1977年 阪急との開幕戦でサヨナラ負けの後、7連勝で首位に立つが、山内新一・藤原満が故障で離脱するなど、近鉄と阪急に追い上げられて5月に3位に落ちる。近鉄とは序盤から7連敗(1分け含む)するなど相性が悪く、3ゲーム差で迎えた6月3日からの阪急との4連戦で1勝3敗として、前期は最終的に阪急と2勝差の2位に終わる。後期は開幕から2勝10敗1分とするなど連敗が続き、連敗が止まると選手20人が下痢、腹痛を起こすなど、7月はアクシデントが続く。8月。リリーフに専念の江夏豊が6試合連続セーブを挙げ、チームの調子は良くなるが、終盤まで勝率5割寸前まで行っては負けるという繰り返しで、終盤64試合目で勝率5割に到達したが、優勝争いに加わる事も無いまま後期は3位に終わり、プレーオフには進出できなかった(通年順位は2位)。9月28日、野村の女性関係が問題視され、公私混同を理由に解任される。後任には広瀬叔功が就任。また、この処分を不服として江夏と柏原純一が退団した。
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野村監督時代
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「東京ヤクルトスワローズ」の記事における「野村監督時代」の解説
1990年 野村克也が監督に就任。チームは前年本塁打王のパリッシュを解雇し(阪神に移籍)、代わりにドウェイン・マーフィーを獲得、さらに当時メジャー133勝の実績を誇ったフロイド・バニスターを獲得した。野村は新人の古田敦也を正捕手に起用、またそれまで捕手だった飯田哲也をセカンド(後にセンター)にコンバートし柳田浩一をレギュラーに抜擢する。高卒2年目の川崎憲次郎が12勝。しかし、この年はマーフィーやバニスターの不振及び早期退団、荒木・高野・伊東らの長期離脱、内藤らの不振もあり、58勝72敗の勝率.446。中日戦で7年ぶりに勝ち越したが、優勝した巨人から30ゲーム差もつけられ、目の前で優勝を決められて5位に終わる。オフに栗山英樹が引退。 1991年 6月に球団新記録の12連勝(それまで当時の12球団で唯一、2ケタ連勝がなかった)で一時は首位に立つも、その後失速し優勝争いから脱落するが、最終戦に勝利し3位を確定。67勝63敗2分けの勝率.515にて11年ぶりのAクラスかつ5割以上を記録。広沢が打点王、古田は捕手としては野村以来26年ぶり、セ・リーグでは初の首位打者となる。この年限りで尾花高夫が引退。 1992年 キャンプ中の怪我により前年14勝の川崎を欠く苦しいシーズンとなるも、広島・巨人・阪神との優勝争いとなる。西村龍次と岡林洋一以外の先発陣が手薄だった投手陣は4月に高野、5月に伊東と、故障で長年離脱していたベテランが復活。開幕ダッシュに成功し首位を走るも、7月の巨人との天王山で3連敗。前半戦を3位で折り返す。後半に入ると、前半戦わずか8本塁打のジャック・ハウエルが本塁打を量産し首位に返り咲く。一時は貯金15を数え、逃げ切れるかに見えたものの、100試合を過ぎた辺りから投手陣全体の駒不足に苦しみ始めた挙げ句大失速。チームは9月に入り9連敗 を喫した(この間に、阪神戦で一時抑えに回った岡林による9イニングに及ぶ救援投球という引き分け試合あり)。貯金3の3位まで転落するが、9月24日に荒木が1541日ぶりの復活登板を果たし息を吹き返す。巨人、広島の脱落により、阪神との一騎打ちとなった本拠神宮球場での10月6日からの直接対決2連戦では、まず初戦は広沢の決勝ソロ、岡林の完封により勝利、ともに66勝60敗で並ぶ。翌7日は9回裏1死まで1-3と苦しい展開に追い込まれるも、広沢の四球を足がかりに、飯田の三塁内野適時打、荒井の左前適時サヨナラ打などにより奇跡的な逆転勝利を掴み、一気に優勝に近づいた。10月10日の甲子園での阪神との直接対決でハウエルが2打席連続本塁打、先発荒木の好投を受けて最後は伊東が締めくくり14年ぶりの優勝。後半戦だけで30本塁打のハウエルは首位打者と本塁打王の二冠となり、MVPも獲得した。最終成績は69勝61敗1分けの勝率.531。日本シリーズは西武ライオンズと対戦。シーズン中同様に怪我人等の投手駒不足で、岡林が7戦中3戦先発完投(延長12回と延長10回が各1試合あり、計30回投球したことになる)、伊東・金沢次男が岡林が完投した試合以外中継ぎで全試合登板(中継ぎのみの登板はこの2名だけ)、シーズン未勝利の高卒新人石井一久を先発で起用と、総力戦で西武に食らいつき、第7戦延長10回まで行きながら3勝4敗で敗退。同年オフ、長嶋一茂が巨人に移籍。この年のシーズン観客動員数247万7000人は、2015年シーズン終了現在、球団記録である。 1993年 前年苦しんだ投手陣の底上げを図る。前年不在だったストッパーの座に開幕直後は山田勉、5月からは高津臣吾が座り、先発投手陣では新人の伊藤智仁が故障で離脱するまで7勝、5完投、4完封、防御率0.91の驚異的な活躍で新人王を獲得。岡林は前年の酷使の影響で不調だったが、西村、伊東、荒木、そして故障から復活した川崎憲次郎と宮本賢治が投手陣を支えた。なお、5月19日の対広島戦では、互いに凄まじい打撃戦を展開の上、延長14回17-16にて勝利を収めている。ペナントレースは夏場から中日との一騎打ちとなり、8月末から9月頭のナゴヤ球場での直接対決3連戦での敗北で1度は首位を明け渡したものの、終盤での11連勝などが効き、中日を突き放した。広沢が2度目の打点王、ハウエルがサヨナラ本塁打5本と勝負強さを発揮しリーグ2連覇。広島戦では6年ぶりに勝ち越した。日本シリーズでも4勝3敗で西武に前年の雪辱を果たし15年ぶりの日本一、シリーズMVPの川崎はカムバック賞も受賞した。正力松太郎賞を野村監督が、シーズンMVPを古田がそれぞれ獲得。オフに杉浦と八重樫が引退し、両名をもってヤクルトアトムズに在籍経験のある選手は全員が現役を退いたことになった。 1994年 高津が最優秀救援投手を初受賞するが、伊東、川崎、西村、荒木ら投手陣の不調・故障離脱が相次ぐ。さらに古田が右手負傷で戦線離脱したことや池山の怪我、ハウエルや新外国人ジェラルド・クラークらの不調も響き、2年連続リーグ制覇から一転して62勝68敗の勝率.477で阪神と同率4位。初優勝時のメンバーで最後の現役選手だった角富士夫が引退。シーズン終了後、広沢克がFAを宣言し巨人へ移籍、自由契約のハウエルも巨人に入団する。 1995年 広沢とハウエルが入団した巨人相手に不利が予想されたが、巨人との開幕第2戦を桑田真澄の危険球退場をきっかけに逆転勝ちし流れが一変。打撃陣は古田、飯田がシーズン通して活躍。土橋勝征が野村監督から影のMVPと賞賛される活躍で後半3番に定着、阪神を解雇されたトーマス・オマリーが狭い神宮で本塁打を量産し自身初の30本塁打。同じくロッテを解雇されたヘンスリー・ミューレンも下位打線で29本塁打を放ち、池山と「第2のクリーンアップ」を形成した。投手陣はテスト入団の新外国人テリー・ブロスが9月9日の巨人戦でノーヒットノーランを達成、最優秀防御率を獲得する。西村とのトレードで近鉄から移籍してきた吉井理人、2年目の山部太、4年目の石井一が揃って二桁勝利。9月30日に本拠地神宮球場にて巨人を5-0で下し2年ぶりのリーグ優勝(最終成績は82勝48敗の勝率.631)。オリックス・ブルーウェーブとの対戦となった日本シリーズでもオマリーが活躍、古田を中心とするバッテリーもイチローを中心とする相手打線を抑え4勝1敗、2年ぶりの日本一に輝いた。 1996年 ダイエーから移籍の田畑一也が12勝、西武から戦力外通告を受け移籍の辻発彦がリーグ2位の打率3割3分3厘を記録。しかし、シーズンはブロスや山部、高津、古田、ミューレンの不調や岡林、川崎、石井一らの故障による長期離脱が相次ぎベストメンバーをそろえることができず、1度も首位戦線に絡めないまま61勝69敗、勝率.469のリーグ4位に終わる。 1997年 オマリーとミューレンが抜けたものの、この年も「野村再生工場」が冴え渡る。広島を自由契約になった小早川毅彦が入団、開幕戦の巨人戦で、それまで3年連続で開幕戦完封を続けていた斎藤雅樹から3打席連続本塁打。中日から自由契約となった野中徹博が13年目で初勝利、ダイエーから自由契約となった廣田浩章もリリーフ陣を支える。開幕前は低評価だった新外国人のドゥエイン・ホージーが巨人・松井秀喜を抑え本塁打王を獲得。4番の座には古田が就き、本塁打こそ9本だったが高打率を記録し「つなぎの4番」として君臨した。投手陣では田畑が15勝、吉井が13勝、伊藤智も高津とのダブルストッパーで復活した。終盤、横浜ベイスターズに最大10あったゲーム差を3.5まで迫られるが、9月2日の直接対決で石井一がノーヒットノーランを達成するとその後は横浜を突き放し結果的に11ゲームという大差をつけ2年ぶりの優勝(最終成績は83勝52敗2分け、勝率.615)。日本シリーズでも東尾修監督率いる西武を4勝1敗で退け4度目の日本一。古田が4年ぶり2度目のシーズンMVPに輝いた。オフに吉井がFAでMLBのニューヨーク・メッツに移籍。 1998年 開幕直前に日本ハムとの交換トレードで野口寿浩を放出し、のちに選手会長となる城石憲之を獲得。同年、高卒新人の五十嵐亮太を擁し、球団史上初のファーム日本選手権制覇を達成した。しかし一軍は、巨人との開幕3連戦3連敗もあってシーズン当初から波に乗れず、川崎が17勝で最多勝、石井一が最多奪三振を獲得するも、新外国人ライル・ムートンやマーク・エーカー、ホージー、古田ら投打の歯車が合わず66勝69敗、勝率.489の4位に終わる。野村は同年限りで退団し、後任には打撃コーチの若松勉が就任。
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野村監督時代
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1999年 チームは6月9日に中日を抜き2209日ぶりに首位に立つなど(優勝した中日以外唯一首位に立った)一週間首位をキープしたが8月6日には最下位転落。その後は浮上するきっかけさえも得られず2年連続の最下位。そんな中巨人と首位攻防戦を繰り広げていた6月12日新庄が巨人戦で敬遠球を打った試合から12連敗(2年連続ワースト記録)を喫した。また、藪がリーグ最多敗戦投手となり(16敗)、1955年 - 1959年に大洋ホエールズが記録した「同チームからの5年連続リーグ最多敗戦投手」のNPB記録と並んだ(1995年・1996年の藪と湯舟→1997年の川尻→1998年の中込→1999年の藪)。その一方で、二軍がファーム日本選手権を制し初の日本一となった。個人としては、前年テスト入団で復帰した遠山奬志がカムバック賞を受賞。シーズン前には西武から佐々木誠が加入。シーズンオフには、オリックスから星野伸之がFAで入団。巨人から広澤克実、ヤクルトから野村克也の息子であるカツノリを獲得。 2000年 4月に9連勝して2年連続首位に立ったもの、しかしこの年も月を重ねるごとに大敗の試合が増えたことによって球団初の3年連続の最下位に終わる。5月には大阪近鉄バファローズからトレードで吉田剛、西川慎一を、6月には日本ハムから金銭トレードでマイカ・フランクリンをそれぞれ獲得。オフには新庄がFAでMLBのニューヨーク・メッツへ、大豊が契約交渉の決裂の結果古巣の中日に復帰。佐々木誠、フランクリンらが退団。チーム本塁打1位から3位(1位新庄28本・2位大豊24本・3位タラスコ19本)が全員退団する事態となった。湯舟敏郎・山﨑一玄・北川博敏との3対3トレードで近鉄から酒井弘樹・面出哲志・平下晃司を獲得。 2001年 4年連続の最下位、監督野村克也としては3年連続最下位に終わった。就任長打力が大幅に弱体化した打線を、走力で補うため新人の赤星憲広、藤本敦士ら俊足の若手を重用。個人としては、井川慶が福原忍と並びチーム最多の9勝を挙げ防御率はリーグ2位を記録、赤星が退団した新庄に代わる正中堅手に定着して盗塁王、新人王を獲得、前年ロッテからテスト入団した成本年秀がクローザーとして復活しカムバック賞を受賞、桧山がここ数年の不振を脱却して4番に定着し初のシーズン打率3割を達成した。シーズン途中、交換トレードで西武から谷中真二、新外国人トム・エバンスを獲得し谷中は7勝を挙げ伊藤と並びチーム最多タイの貯金4つを記録した。しかし、この年のチーム最多本塁打はクルーズの14本という状況であり、投手陣も新戦力が台頭した一方で藪や川尻らベテラン勢が軒並み大不振に陥った。シーズン後に吉田剛、酒井弘樹が退団、塩谷和彦をトレードで放出。10月の発表時点では野村の監督続投が決定していたものの、その後野村沙知代夫人の脱税容疑による逮捕の責任を取る形で急遽監督を辞任し、辞任から1年後となる2002年11月にシダックス監督に就任する。後任にはこの年まで中日の監督を務めていた星野仙一が就任。オリックスからジョージ・アリアス、FAで日本ハムの片岡篤史が加入。 この年で暗黒期は一応終わり最下位も平成では2018年に金本知憲が記録するまでない。
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